空城の計
浜松城に戻った家康は、わざと城門を開け放ち、篝火をつけて遠くからもその様子が見えるようにしました。
このため、浜松城付近まで追撃をしてきた山県昌景の部隊は、何か罠があるのではないかと警戒し、城への突入は控えました。
そして信玄が西への行軍を優先させたことで、家康は絶体絶命の危機を脱しています。
もしも信玄の健康が万全で、時間に余裕があったならば、この時に浜松城を攻め落とされていた可能性は高かったでしょう。
戦いの結果
徳川軍は先に述べた通り、この戦いで2千の死傷者を出し、鳥居四郎左衛門や本多忠真といった譜代の有力武将を失い、甚大な損害を受けました。
そして二俣城を失った雪辱を果たそうとした中根正照も戦死しています。
また、援軍にやってきた織田軍も、撤退に失敗した武将の平手汎秀(ひろひで)を失いました。
これに対し、武田軍が受けた損害はわずか200人程度で、武将に戦死者はなく、まさに圧勝であったと言えます。
信玄の釣り出し作戦に家康がまんまと乗ってしまったのがこの原因であり、家康の焦りを利用した信玄の作戦勝ちであったと言えるでしょう。
これによって信玄は遠江と三河方面での有利を確定させ、上洛に向けてさらに軍勢を先に進ませることになります。
信玄の死
しかし信玄には、三方ヶ原の戦いの戦果を活かす時間が残されていませんでした。
武田軍は三河に入り、徳川方の防衛拠点であった野田城を攻め落としますが、この頃には信玄の体力は限界を迎えており、これ以上の戦闘指揮が不可能となります。
このため、しばらく長篠城に入って療養しますが、回復の見込みが立たなかったため、甲斐に向けて撤退することになりました。
信玄は1573年の4月に、その途上で病没し、結果として家康と信長は、生涯で最大の危機を脱することができました。
信玄は戦いには勝利したものの、病魔に敗れ、天下を制することはかないませんでした。
信長の躍進
こうして信玄からの圧迫から逃れた信長は、京から足利義昭を追放し、越前の朝倉義景と北近江の浅井長政を次々と打ち取り、勢力基盤を大きく拡大しています。
家康も武田軍への反撃に転じ、奪われていた長篠城など、三河の諸城を奪還していきます。
信長と家康は信玄の死によって生じた空白を活用し、武田軍との戦力差を増大させることで、この後の戦いを有利なものにしていきます。
勝頼の奮闘と挫折
武田氏は信玄の四男・勝頼が後を継ぎますが、彼には信玄ほどの求心力はなく、武田軍の結束力は、少しずつ衰えを見せていきます。
それでも勝頼は美濃や遠江への遠征に成功し、いくつかの城を信長や家康から奪っています。
そして長篠城を再復するために1万5千の兵を率いて戦いに臨みますが、この時には信長が3万の兵を率いて救援に駆けつけました。
その上、信長は3千丁という大量の鉄砲を運んできていました。
さらに家康も8千の兵を率いて勝頼を迎え撃ったため、この時の戦力差は3万8千対1万5千になっています。
これは1575年の戦いでしたが、三方ヶ原の戦いから3年弱で、東海における動員兵力の規模が逆転してしまっています。
勝頼は数の不利を覆そうと、果敢に攻撃をしかけましたが、野戦築城と鉄砲隊の威力を存分に活用した信長の戦術に敗れ、1万の兵と多くの勇猛な武将たちを失う大損害を負い、武田氏の衰退を招き寄せてしまいました。
この「長篠の戦い」は、三方ヶ原の戦いとは全く逆の展開を見せており、織田・徳川連合と武田軍の攻守が交代してしまったことが、如実に示されています。
信玄の病死という事態が、ここまでの変化を生じさせたのでした。
その後
その後、勝頼は終始劣勢に立たされ、1582年には本拠地である甲斐を信長の嫡子・織田信忠に攻め落とされて滅亡しています。
武田氏を打倒した信長は、天下を制する直前にまで勢力を伸ばしますが、同年に家臣の明智光秀の裏切りによって本能寺で討たれました。
家康はその後も長く生き延び、最終的には将軍となり、江戸に幕府を開いて天下を統一しています。
家康は完膚なきまでに自分を叩きのめした信玄と、武田軍団の実力を高く評価しており、甲斐や信濃を支配した際に旧武田家臣団を登用したり、信玄の統治政策を取り入れるなどしています。
三方ヶ原の戦いの直後には、何度も敗戦の悪夢を見てうなされたということですが、自分を打ち負かした相手からも学ぶことができるのが、家康の強さなのだと言えるでしょう。
【最終的に天下を制した徳川家康の肖像画。その成長には信玄が大きな影響を及ぼしている】
■以下の記事で長篠の戦いの詳細を記しています。

■武田信玄の生涯についてはこちらの記事で詳しく記しています。
