武田信玄はどうして三方ヶ原の戦いで徳川家康に圧勝できたのか?

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一言坂の戦い

1572年に、信玄は2万2千の兵を率いて再び遠江に侵入し、同時に山県昌景に5千の兵を預け、三河を経由して遠江の北部に攻撃を行わせました。

信玄はこの時に自ら1万7千を率い、わずか数日の戦いで遠江の諸城を攻め落としています。

武田軍の動きがあまりに早かったため、家康はまともに対応ができないほどでした。

そして重臣の馬場信春に残りの5千の兵を預け、北遠江の要衝・二俣城を包囲させます。

これに対し家康は、わずか3千の兵を率いて威力偵察に向かいます。

二俣城は掛川城や高天神城など、他の遠江の要所に接続する重要拠点で、これを失うと遠江での勢力が大きく減退してしまうので、少数の兵でもひとまず様子を見に向かわざるを得なかったのです。

この時に家康は本多忠勝を偵察のために先行させますが、途中にある一言坂(ひとことざか)で武田軍の先発隊と接触します。

敵は5千と多勢であったため、家康は直ちに撤退を開始しますが、武田軍の執拗な追撃を受け、徳川軍は危機に陥ります。

この時に忠勝が殿(最後尾の守り)をつとめ、武田軍の追撃を食い止めようとしました。

忠勝の部隊は正面から馬場信春の部隊に切り崩され、信玄の近習である小杉左近に退路に回り込まれて鉄砲を撃ちかけられるなどして、危機に陥ります。

この時に忠勝は小杉隊に向かって突撃を敢行し、敵中突破を図りました。

忠勝は決死の覚悟で挑みかかっており、これに立ち向かうと大きな被害を受けるだろうと判断した小杉左近が道を開けたため、忠勝は退路を切り開くことができました。

こうして忠勝が奮戦をして時間稼ぎをする間に、家康は天竜川を渡って無事に撤退しています。

この時に忠勝は、敵の小杉左近から「家康に過ぎたる者」と呼ばれて賞賛されました。

二俣城の陥落

しかし徳川軍は二俣城の救援には失敗し、この年の12月に信玄の策によって攻め落とされています。

この城は丘の上にあり、唯一攻め込める通路は急坂になっており、そこを通ろうとすると城内から弓矢や鉄砲で狙い撃ちにされるため、さしもの武田軍も攻めあぐねていました。

この城の唯一の弱点は城内に井戸がないことで、このために釣瓶を用い、城の周囲にある川から水を汲み上げていました。

信玄はこの弱点をつくことにし、いかだをたくさん作らせ、川の上流からこれを一気に押し流して釣瓶を支えている柱を打ち砕き、水の補給ができないようにしました。

これによって水不足に陥った徳川軍は籠城を継続することができなくなり、守将の中根正照は城を明け渡して降伏しています。

この結果、家康はますます追い詰められていくことになりました。

家康は浜松城に籠城するも、素通りされる

家康は二俣城の陥落を受け、自軍の8千の兵と、信長が送ってきた3千の援軍とともに浜松城に籠城しました。

信玄が二俣城を攻め落とした以上、次に狙われるのは浜松城であろうと予測したからです。

しかし信玄は別働隊と合流した後、浜松城を攻め落とすのに十分な3万という大軍を率いていたにも関わらず、これを素通りして西へと向かって行きました。

この時に家康は信玄への追撃を決意し、出陣することを宣言します。

しかし3万対1万1千ですので、野戦を行っても勝利できる見込みは乏しく、ましてや相手は戦上手の信玄ですから、家臣や織田軍の将・佐久間信盛から反対されます。

家康はこれを押し切って強引に出陣しますが、こういったいきさつであったため、織田軍の士気は上がらず、不安を抱えた状況での出陣となりました。

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