信玄が駿河の支配を確立する
こうして後顧の憂いを絶った信玄は、改めて駿河に出兵して家康を追い払い、その支配を固めることに成功します。
駿河は今川氏の本拠として長く発展していた土地で、海に面していて交易も行えることから、信玄にとっては戦略的に重要な意味を持っていました。
こうして東海に確固たる根拠地を得た信玄は、西進して京への上洛を目指すようになります。
将軍・足利義昭から上洛の要請を受ける
信長は1568年に上洛に成功した後、京周辺に勢力を持つ三好氏や山名氏などを屈服させ、順調に勢力を拡大していきました。
しかし越前(福井県)の朝倉義景を攻めたことで、同盟を結んでいた北近江(滋賀県北部)の大名・浅井長政が信長に敵対するようになり、情勢が大きく変化していきます。
さらに摂津(大阪)や伊勢に勢力を持つ石山本願寺が信長と敵対したことから、いつの間にか信長の周囲は敵だらけになっていきました。
こうしていわゆる「信長包囲網」が形成され、敵対していないのは信玄や家康と同盟を結んでいる、東側だけになっています。
この状況を見て、信長に推戴されたことで将軍になった足利義昭は、信長を排除して、代わりに信玄に自分を担がせようと考えるようになりました。
義昭は将軍になったにも関わらず、信長に抑え込まれて自分の思い通りに政治が行えないことに不満を抱いており、これが信長への反発につながっていきました。
義昭は信玄と家康に、信長との同盟を打ち切り、東から信長を攻撃して滅ぼすようにと要請します。
信玄は要請を受け入れ、家康は断る
上洛の野心を抱いていた信玄は、義昭からの要請を受け入れ、信長との同盟を打ち切ることを決定します。
信玄からすれば、他勢力が協力してすでに信長を苦戦させている状況でしたので、自分がこの流れに乗って信長にとどめを刺し、取って代われる絶好の機会が発生していたことになります。
一方で、家康は信長との同盟を堅持し、義昭の誘いには乗りませんでした。
この頃の家康は義理堅く、律儀な人である、との評判を得ており、一度結んだ同盟は相手が不義を働かない限りは破らない、という外交的な方針を掲げていました。
こうして東海方面では、信玄対家康・信長連合という構図ができあがっていきます。
信玄が病に倒れる
こうして1571年、上洛のための西上作戦を開始した信玄は、主力を率いて遠江に侵入し、野田城や小山城など、いくつもの家康方の拠点を攻め落としていきます。
しかし信玄はそのさなかに喀血してしまい、いったんは軍を引かざるを得なくなりました。
信玄はかねてより持病を抱えていましたが、それがこの時期になって急速に悪化したのです。
このため、信玄の寿命が尽きるのが先か、家康と信長が滅ぶのが先か、という時間との勝負になっていきます。
各地で武田方が優勢となる
信玄の病が癒えると、武田軍は美濃・遠江・三河に同時に侵攻を行い、信長と家康を追い詰めていきます。
まず、美濃の豪族・遠山氏が武田方に寝返り、東美濃の重要拠点である岩村城が信玄のものとなりました。
信玄はただちに配下の将兵を送り込み、岩村城の支配を固めています。
さらに重臣の秋山信友や山県昌景らが長篠城など三河北部の城を攻め落とし、家康の領地を削り取っていきました。
この頃の家康はまだ信玄の半分以下の動員能力しかなく、頼みの信長は多方面に抱えた敵に対処するために、東海方面に援軍を送る余裕がありませんでした。
このため、信玄のなすがままに領地を奪われていきます。
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