前田利家 「槍の又左」から加賀百万石の大名にまで出世した勇将の生涯

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秀吉との関係

利家はまだ一武将だった時代から、秀吉とは個人的に良好な関係を築いていました。

清洲や安土における屋敷が隣同士だったため、両者は家族ぐるみで付き合っていたのです。

そして利家は四女の豪姫を、子どものいない秀吉夫妻の養子に授けるほどの好意を見せています。

こうした縁もあってか、勝家と秀吉が一時的に和睦をする際に、使者として秀吉と対面しており、この時に秀吉に内通したという説があります。

少なくとも、秀吉から自分に味方するように勧誘はされていたと思われます。

利家は前田家を存続させる上で、これまで世話になって来た勝家か、それとも友人の秀吉か、どちらに味方するかを選択しなければならない、苦しい状況に置かれました。

賤ヶ岳の戦い

1583年になると、勝家は秀吉を打倒すべく、北陸の諸大名を率いて北近江の賤ヶ岳(しずがたけ)付近にまで進出します。

秀吉もこれに対応するために北近江に向かい、両者は多数の砦を築いて持久戦の構えを取ります。

やがて戦況が膠着すると秀吉は他の方面に出征して不在になります。

この隙を突いて柴田軍の先鋒である佐久間盛政が羽柴軍に攻めかかります。

そして秀吉側の勇将・中川清秀を討ち取るなどして戦況を有利にしました。

しかしこれを知った秀吉が北近江に猛烈な速度で帰還し、突出していた盛政を包囲して攻撃を開始します。

盛政は撤退しつつ勝家の軍勢と合流し、ここに至って柴田軍と羽柴軍の決戦が行われる状況になりました。

歴戦の武将同士の対戦となったため、しばらくは互角に戦況が推移しますが、激戦の最中に、利家は率いている5000の軍勢を突如撤退させました。

この前田軍の撤退により、後方にいた各部隊は柴田軍が敗北したと誤認し、次々と連鎖的に撤退を始めてしまいます。

この結果、柴田軍は後方から崩壊してしまって戦線が維持できなくなり、羽柴軍が勝利を収めることになりました。

この戦勝によって秀吉は信長の後継者の地位を確立し、天下人の地位を得ることになります。

利家は戦場からの無断撤退という形でしたが、秀吉の躍進におおいに貢献した結果になりました。

柴田勝家の最期

利家は賤ヶ岳からの撤退後、越前の府中城に立てこもります。

すると、柴田勝家は居城である北ノ庄城に帰還する途中で、この府中城に立ち寄ります。

そして利家に湯漬けを所望し、利家はこれを提供します。

勝家は湯漬けを食べ終わると、裏切った利家に恨み言ひとつ言わず、これまでの働きに感謝を述べ、静かに立ち去ったと言われています。

ついで秀吉が府中城を訪れ、降伏した利家に戦勝への貢献を感謝したため、戦場で無断撤退という行為が世間から咎められることはありませんでした。

これは利家の行動が原因で敗れたにも関わらず、利家を責めなかった柴田勝家の度量によるところが大きいでしょう。

勝家は今さら利家を責めても手遅れだと潔く判断しており、秀吉に降伏して家名を保つように助言をしたとも言われています。

おそらく、勝家は自分と秀吉の板挟みになっていた利家の心情も汲んでくれたのでしょう。

府中から立ち去る勝家を見送る利家の胸中は、複雑なものだったと思われます。

勝家は北ノ庄城にまで撤退した後、再婚して妻となっていた信長の妹・お市の方と共に自害して果てています。

加賀を与えられる

利家は秀吉に従って北ノ庄城攻めの先鋒を務め、本領を安堵されています。

そして佐久間盛政の旧領のうち加賀二郡を加増され、本拠地を能登から加賀の金沢へと移しています。

こうして後に「加賀百万石」と呼ばれる領国の基礎が築かれることになります。

秀吉から領地を与えられたことで、利家は正式に秀吉の家臣となり、その覇権の確立に寄与していくことになります。

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