前田利家 「槍の又左」から加賀百万石の大名にまで出世した勇将の生涯

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織田家への復帰のために奮闘する

利家は織田家に復帰するため、1560年に発生した桶狭間の戦いに無断で参戦しています。

この時には駿河の今川義元が2万という大軍で尾張に侵攻してきましたが、信長はわずか5000の兵でこれを撃退しています。

利家はこの戦いで、今川軍の将士の首を3つ取るという戦功を立てました。

しかしそれでも信長からは許されませんでした。

翌年には信長が美濃(岐阜県)に1500の兵を率いて攻め込み、この時にも利家は無断で参戦しています。

迎えうった美濃の斎藤龍興の軍は4倍の6000ほどでしたが、信長は鮮やかな包囲戦術でこれを討ち破っています。

利家はこの「森部の戦い」でも活躍し、足立六兵衛という剛勇の士を討ち取りました。

この手柄によってようやく信長に帰参を許され、300貫を加増されて織田家に復帰しています。

この時に苦労をしたせいか、利家の性格からは傲慢さがなくなり、律儀者だという評判が立つほどになり、人望を得ていくことになります。

前田家の家督を継ぐ

1569年になると、利家は信長の命令によって前田家の家督を継ぐことになります。

前田家の家督はこれ以前に、利家の兄・利久が継いでいました。

しかしこの利久は病弱な人物で、信長から課される軍役を十分に果たすことができませんでした。

このため、信長は利家が当主になり、前田家の実力にふさわしい軍役を果たすようにと命じたのです。

利家は武勇に優れていたことから、このような引き立てを受けることになりました。

こうして利家は前田家の当主となり、その軍勢を率いて信長の天下統一事業に参加していくことになります。

なお、兄の利久の養子になっていたのが高名な前田慶次です。

慶次は滝川氏の出身で、利家と血のつながりはなく、義理の甥という立場になります。

利家と慶次は不仲だったという説がありますが、利家は傾奇者(世の常識にとらわれず、派手なふるまいをする者)を好んでいたことから、実際には特に仲違いをしたことはなかったようです。

ともあれ、こうして利家は32才にして、前田家の当主になりました。

各地の戦いに参戦する

1570年になると、京都への上洛を果たした信長への反発が高まり、「信長包囲網」という諸大名による反信長連合が形成されるにいたります。

これを打倒するために信長は近畿の各地を転戦し、利家はこれに従軍して戦功をあげています。

この年の6月には北近江(滋賀県)の大名・浅井長政と、越前(福井県)の大名・朝倉義景が連合軍を形成して信長に戦いを挑んできます。

信長は同盟相手の徳川家康とともにこれを迎え撃ち、近江で「姉川の戦い」と呼ばれる激戦が行われます。

利家はこの戦いで活躍し、浅井助七郎という武将を討ち取り、信長から「比類なき槍」だと賞賛されています。

また、9月の石山本願寺との戦いでは、織田軍が敗れて退却するさなかに、春日井堤にひとり踏みとどまって奮戦し、多数の敵を倒して味方を無事に退却させるという、抜群の戦功を立てています。

この時には「日本無双の槍」とまで讃えられています。

このように、利家は各地で勇名を馳せており、初陣以来の変わらぬ武勇を敵味方に見せつけていました。

この後に鉄砲奉行に任じられ、長島一向一揆との戦いや、長篠の戦いにも参戦した記録が残っています。

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