朝鮮出兵
国内の統一に成功した秀吉は、次に明に攻め入ることを計画し、そのための通路となる朝鮮半島への出兵を決意します。
利家にも動員がかかり、8000の兵を率いて九州に着陣します。
秀吉はこの時、自ら朝鮮に渡海して指揮を取ることを考えていましたが、利家と家康に説得されて思いとどまっています。
その後、秀吉の母・大政所が危篤になり、秀吉が急ぎ大坂城に帰還すると、秀吉不在の間の政務を利家と家康が担当しています。
このように、秀吉は利家と家康を、特に重要な家臣として扱っていたことがうかがえます。
序列を引き上げられる
これまでに毛利輝元や上杉景勝の大大名たちは、利家よりも高い官位についており、豊臣政権での席次は利家よりも上でした。
しかし1594年になると、利家はこの両者と同日に従三位に叙任されました。
さらに両者よりも先に権中納言に任じられ、豊臣政権における序列は、家康に次ぐ二番手の順位にまで昇っています。
こうして秀吉からさらに引き立てを受けています。
これには利家を家康と対抗しうる立場に置くことにより、豊臣政権の安定を図り、家康の台頭を抑える意図があったものと思われます。
秀頼の傅役(もりやく)になるも、やがて隠居する
1593年に、秀吉の子の秀頼が生まれると、利家はこの傅役(養育係)に任じられます。
秀頼が成人するまでの間、利家が守り育てて欲しいというのが秀吉の願いだったのでしょう。
しかしこの頃には利家も60才に近くなっており、体調を崩すことが増えてきています。
このため1598年には隠居し、嫡男の利長に家督を譲りました。
五大老の上席に任じられる
利家は隠居をしたものの、完全に政治から身を引いたわけではなく、1599年に、秀吉が定めた五大老のひとりに任じられています。
これは徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家らに合議体制を取らせ、秀吉死後の政権運営を預けるという政策でした。
利家は家康とともに五大老の中でも上席の地位についており、実質的に豊臣政権を差配する立場についたことになります。
この年のうちに秀吉は没し、豊臣政権は幼子の秀頼が当主となり、不安定なものとなります。
大坂城に入り、家康と対立する
秀吉の死後、利家は傅役として秀頼に従い、大坂城に入ります。
これにより、実質的に大坂城の主になったことになります。
一方で家康は、秀吉が生前に危惧した通り、秀吉が死去すると伊達政宗や福島正則らの諸大名との間に婚姻関係を築き、私党の形成に邁進するようになっていきます。
諸大名の間の勝手な婚姻は秀吉の遺命によって禁じられており、利家はこの家康の違反行為に怒って対立状態になります。
そして諸大名たちが利家派と家康派に別れ、それぞれの大坂屋敷に参集する騒ぎになりました。
利家には上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家ら他の五大老が味方し、さらに加藤清正や浅野幸長・細川忠興らの武断派の諸将と、石田三成らの奉行衆たちも利家側につきました。
利家は若い武将たちから歴戦の勇将として慕われており、石田三成からも豊臣政権の守護者として支持されていました。
この時点では、家康よりも多くの味方を集められるほどの人望を得ていたことになります。
利家は事態を収拾するために家康と直談判を行い、勝手な行動を改めるようにと通告します。
この時に利家は、要請に応じなかった場合には自らの手で家康を切り捨てる覚悟であったと言われています。
もしも討ちもらして自分が返り討ちにあった場合には、利長に弔い合戦をするように命じてもいました。
家康はこうした利家と諸大名の動きを見て、利家と対立するのは得策でないと判断し、大坂の屋敷を出て向島に退去し、武力衝突が起きかねない事態を回避します。
そして利家ら他の五大老たちと誓詞を交わし、秀吉の遺命を守ることを約束します。
これを見るに、利家は家康をも押さえ込めるほどの影響力を持っていたことになり、もしも利家の寿命があと10年長ければ、その後の歴史も大きく変わっていたかもしれません。
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