長篠城の守備
長篠城は先にも触れた通り、武田氏の勢力圏に隣接する防衛拠点です。
ですので、家康は遠からず武田軍が攻撃をしかけて来るだろうと予測していました。
ゆえに多くの食糧と数百丁の鉄砲、さらには『異風筒』という巨砲をも配備し、入念に防衛体制を構築しています。
長篠城は南東と南西に川が流れており、それらが天然の防壁になっていました。
このため、北側に集中して防衛すればよく、小数の兵でも守りやすい、なかなかの堅城だったのだと言えます。
家康は守将に奥平貞昌という、若干20歳ながらも優れた力量を持つ武将をあて、500の兵を配置しました。
奥平氏はその武勇によって三河では知られた存在で、兵力こそ少ないものの、精鋭部隊が城を守っていたのだと言えます。
武田軍の包囲
勝頼はこの長篠城を1万5千、守備兵の30倍の兵力で包囲しました。
そして5月8日より、連日に渡って激しい攻撃を加えます。
兵力差からいって、勝頼は短期間で長篠城を攻め落とし、甲斐に戻る予定だったと思われます。
途中で行軍の目的を変えてはいましたが、兵力差を考えるとここまでの勝頼の行動には、さほど問題があったわけではありません。
しかしながら城兵の抵抗は激しく、そうやすやすと攻め落とすことはできませんでした。
激しい攻防
武田軍は数日に渡って長篠城を攻撃しましたが、城兵は奥平貞昌の指揮の元で奮戦し、武田軍の攻撃を跳ね返し続けました。
これにはあらかじめ鉄砲が数多く配備されていたことが影響しています。
正面攻撃のみでは容易に攻め落とせないとみて、武田軍は迂回して城の南西の川を渡り、裏門を攻める奇襲作戦を行います。
しかしこれも、城門を守る兵たちが必死に矢石を飛ばして撃退しました。
さらに12日には城の本丸の西側から、地下道を掘って城内に侵入しようとしますが、それと気づいた貞昌が地下道を崩しつつ、武田軍を狙撃させます。
この結果、またも攻城作戦は失敗に終わりました。
食料庫を放棄する
翌13日になると、武田軍は北東の山道から攻め上がり、食料庫を奪う作戦を実施します。
食料庫の側にある曲輪を守る兵たちが、これを防ぐために突出し、寡兵でありながら、武田軍800人を死傷させるという大戦果をあげて撃退しました。
しかしながら周囲の城壁は破壊され、防衛するのが難しくなったため、貞昌は曲輪と食料庫の放棄を決定します。
これにより、城内に残る食糧は数日分となってしまいました。
さらにこの夜には、武田軍が城門の前に井楼(木材で組んだ物見台)を構え、城内を見下ろせる場所を確保しようとします。
しかし守備兵が巨砲を発射してこれを破壊し、武田軍のもくろみを打ち砕きました。
このように、長篠城の守備兵たちの抵抗は非常に激しく、装備も充実していたことから、さしもの武田軍も攻めあぐねる状況となります。
包囲戦に切り替える
勝頼はこの結果を受け、14日には長篠城の包囲を厳重にし、周囲に柵をめぐらして兵糧攻めにすることにします。
既に食料庫を放棄させていましたので、この作戦自体は的確な判断だったのだと言えます。
ですが攻城戦は、勝頼の予想に反して長引いていきました。
そうなれば当然のことながら、織田・徳川連合軍が救援にやってくることになります。
援軍要請
食糧が残り少なくなったことから、貞昌は一族の勝吉という者に、岡崎城への救援要請の使者になるようにと命じます。
すると勝吉は「出発した後で万が一にも城が陥落したら、千年をかけようとも決してその恥をすすぐことはできない」と言ってこれを拒みます。
さらに、将兵たちの中から「援軍がなく、このままみじめに餓死するくらいなら、城から討って出て戦い、見事に戦死してくれよう!」と言い出す者が現れます。
追い詰められた状況下で、将兵たちの精神に余裕がなくなっていたことがうかがえます。
貞昌はこれに対し、「無駄死にはするな。いざという時は私ひとりが自害して降伏し、みなの命を救う」と約束し、城兵たちのはやる気持ちを鎮めました。
家康に見込まれるだけのことはあり、貞昌は優れた統率力を持っていたようです。
こうした流れを受け、足軽の鳥居強右衛門が貞昌に対し、「自分が援軍要請の使者になります」と申し出ました。
貞昌はこれを許し、書簡を強右衛門に託します。
強右衛門は「囲みを脱することに成功したら、強右衛門山にのろしを上げてその証拠とし、3日後にまた山上でのろしを上げ、援軍の消息を知らせます」と約束しました。
強右衛門は14日の夜半に城を出発し、急流に入り、刀を用いて武田軍が設置した警戒用の網を斬り、川を泳ぎきります。
そして長い距離を走って雁峰山に登り、煙を上げてから岡崎城へと向かいました。
これらの経緯から、強右衛門は相当な体力の持ち主で、水泳も得意だったことがわかります。
それゆえに、使者になることを許されたのでしょう。
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