家康や信長と面会する
翌15日、岡崎城に到着した強右衛門は家康に面会し、貞昌の言葉を伝えました。
「城兵はまだ疲労しておらず、弾薬は乏しくありません。しかし食糧は数日分しかなく、もし援軍が3日を過ぎても来なければ、貞昌は自害して将兵の餓死を救うほかに、術はありません」というのがその内容でした。
この場には信長も同席しており、強右衛門の功労を称賛しつつ、「まさに明日、大軍を長篠に向けて出陣させるところだ。そなたは予とともに長篠に向かうがよい」と告げます。
しかし強右衛門は援軍が来ることを貞昌に知らせる役目があったため、信長の言葉を断り、先に長篠に向かうことにします。
そして16日には長篠付近に戻り、再び雁峰山で煙をあげ、城に入ろうとました。
ですが、先にも煙をあげていたことで、武田軍は何者かが城を脱出したことに気づいており、警戒を厳重にしていました。
水中の綱には鈴がつけられ、岸の上には柵が設けられ、ひとりひとりの出入りが確認されるため、容易に川を渡ることができません。
強右衛門は人夫に混じって城に入る機会をうかがっていましたが、やがて武田兵に正体を察知され、捕縛されてしまいます。
強右衛門の勇気
勝頼は家臣に強右衛門を尋問させ、事情を知りました。
すると勝頼は強右衛門の忠勇を称賛し、縄を解くように命じます。
そして自ら強右衛門にこう告げました。
「城兵に『援軍は来ない』と告げ、すみやかに降伏するように促すがよい。そうすれば厚く褒美を与えることを約束しよう」
これを強右衛門が受け入れると、勝頼は十数名の兵をつけ、城門の前まで強右衛門をつれて行かせました。
すると強右衛門は、「すでに織田と徳川軍は近くまで来ている! 援軍が城外に達するのに3日もかからないだろう! このまま城を守り続けてくれ!」と大声を出して城内の将兵たちに伝えます。
強右衛門は勝頼に従うふりをして、城内に援軍が到着することを知らせる機会を得ようとしたのでした。
そうすれば勝頼に殺されるであろうことはわかっていたわけですが、にも関わらず味方に正確な情報を伝える選択をした強右衛門は、並外れた勇気の持ち主だったのだと言えます。
これを聞いた勝頼は激怒し、強右衛門を磔にするように命じました。
こうして強右衛門は城の近くで処刑されてしまいましたが、強右衛門から命がけの言葉を伝えられた城兵たちは奮い立ち、ついに長篠城が陥落することはありませんでした。
織田・徳川軍の動き
強右衛門が岡崎に到着する以前から、家康は急を知らせる使者を信長に送っていました。
そして長篠城が包囲されてから3日後の5月11日に、使者の奥平貞能(貞昌の父)が信長に面会し、援軍を求めています。
信長はこれを受けて出兵を決断し、嫡男の信忠とともに3万の軍勢を編成し、14日には岡崎城に到着しています。
そして翌15日に強右衛門が岡崎城に駆けつけ、家康と信長に貞昌の言葉を伝えたのでした。
長篠城の状況を知った信長は家康と協議の上、ひとまずは長篠城の西にある設楽原に進軍することにします。
家康は8千の兵を率いて出陣し、このため織田・徳川連合軍の兵力は3万8千になりました。
両軍は5月18日に設楽原の西側に到着し、いくつもある丘の上に分散して布陣します。
織田軍の陣容と装備
この時に織田軍を指揮していたのは、柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀、滝川一益、羽柴秀吉、といったそうそうたる顔ぶれで、織田軍の精鋭部隊が集結していたのだと言えます。
その上、信長は全軍の1万人の中から3千の銃手を選抜し、佐々成政や前田利家らに指揮を任せました。
このことから、信長はこの戦場に3千丁の鉄砲を持ってきていたのだと言われていますが、これには諸説があってはっきりとしていません。
しかしながら、信長は後に出撃させる別働隊に500の銃手を与えた、という記録があることから、数千丁単位で鉄砲を備えていたのは確かだと思われます。
所有する鉄砲の数に余裕がなければ、500丁も別働隊に与えることはできないからです。
柵の構築
信長はそれ以外にも、兵卒にそれぞれ木材と縄を運ぶようにと命じていました。
そして連子川の川岸に柵を作らせ、諸隊をその後方に配備し、防衛力を高めています。
設楽原にはいくつかの川が南北に流れており、守備に利用しやすい地勢でした。
川と柵で二重に敵の進撃を阻み、柵の向こうから鉄砲を撃って武田軍に打撃を与える、というのが信長のもくろみだったのです。
武田軍は野戦において、騎兵と歩兵による突貫力に優れていましたので、それに対抗する策として、このような手段を用いたのだと思われます。
武田軍は個々の兵士の戦闘力が高く、それを勇猛な武将たちが束ねることで、精強な兵団となっていました。
ですので、それと正面からまともにぶつかれば、数で上回っているからといって、必ず勝利できるとは限りません。
ゆえに信長は大軍であることにおごらず、武田軍の強みを削り、自軍が有利に戦えるよう、戦術をこらしたのでした。
信長はこの戦場において慎重かつ、用意周到だったのだと言えます。
【次のページに続く▼】