長篠の戦いで織田信長が武田勝頼に圧勝できたワケ

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武田の策

武田軍は長篠城を攻めあぐね、包囲を厳重にして兵糧攻めを行っていましたが、織田・徳川の大軍が近くにまで迫って来たと知り、なるべく速く城を陥落させようと、策を用いることにしました。

守将の貞昌に対し、父の貞能の名をかたった書簡を送り、「援軍は来ないから速やかに降伏せよ」と促します。

しかしすでに強右衛門から、もうすぐ援軍がやって来ると聞いていたため、貞昌がこの策に騙されることはありませんでした。

むしろ貞昌は家臣の提案を受け、信長と家康に再び使者を送り「あと数日は食糧がもちますので、城が陥落するのではないかと焦り、性急に戦う必要はありません」と連絡しています。

これによって、信長と家康は大軍を展開しづらい長篠城の付近には進軍せず、より有利に戦える設楽原に布陣して、武田軍を待ち受けることができたのでした。

このあたりの貞昌と家臣たちの配慮は、実に行き届いたものだったのだと言えます。

武田軍の軍議

信長と家康が設楽原に布陣した翌日、5月19日になると、勝頼は主だった武将を集めて軍議を開きました。

そこで勝頼が示した作戦案は、非常に強気なものでした。

敵兵が設楽原の西に布陣したので、そちらに進軍してこれを掃討するべし。

長篠城の監視は鳶ヶ巣とびがすなどの砦の兵たちで足りるだろう。

それ以外の部隊はすべて川を越えて進み、一大決戦を行うべし。

これを聞いた馬場信春や内藤昌豊、山県昌景といった、信玄に鍛え上げられた重臣たちは、みな反対して勝頼を諫めました。

織田と徳川は全力を挙げて出陣してきており、数で大きく劣っている以上、勝利するのは難しい。

兵をおさめて帰還するのが一番で、もしも敵が追撃をしてきたら、信濃の険路でこれを鏖殺するべし、というのが彼らの意見でした。

武田軍は長篠城攻めですでに千人程度の損害を負っていたため、使える戦力は1万4千になっていました。

その上、設楽原に進軍するには、長篠城に対する監視の兵を2千は残さねばならず、決戦に使える兵力は1万2千です。

これですと、織田・徳川軍3万8千の3分の1以下ですので、勝頼の立てた作戦は、はっきりと無謀と言えるものでした。

勝頼の側近と重臣の議論

その後、勝頼の側近の跡部あとべ勝資かつすけと、重臣を代表して馬場信春が議論を戦わせます。

馬場は妥協案として「損害を怖れずに長篠城を急いで攻め落とし、戦果を挙げた上で帰還すれば武田軍の不名誉にはならない」と主張しますが、跡部は「それでは決戦の際に用いられる兵力が減るからだめだ」と反論します。

それを受け、馬場は「ならば城を攻め落とした後、武田氏の一族は城を守り、我らが川を渡って敵軍と対峙し、持久戦を行おう」と述べ、無謀な決戦案を回避しようとします。

しかし跡部は「信長は敏捷な武将だから、こちらの思惑に乗ってきたりはせず、向こうから攻めかかってくるだろう、持久戦など成り立たない」と述べ、これにも反対しました。

馬場が「ならば、もはや死を覚悟して決戦するしかあるまい」と言うと、跡部は「やむを得ずに戦うのではなく、こちらから進んで戦えば、先んじて敵を制することもできよう」と述べます。

すると勝頼が跡部の発言を褒め称え、武田氏の家宝である勝資かつすけという鎧に決戦を誓い、これによって議論が決しました。

武田氏には意見が分かれた際には、当主が楯無に対して誓いを立てると、みながそれに従わなければならない、という不文律がありました。

このため、もはや馬場も反論することができず、設楽原への進軍が決定されます。

勝頼の考え

こういった経緯から、跡部勝資は後世から佞臣であるとして批判されています。

おそらくは、勝頼自身が決戦の意志を強く持っており、それを受けて跡部は議論を決戦の方向へと導いたのでしょう。

ではどうして勝頼が決戦に固執したのか、そのあたりは勝頼が語ることはなかったので、想像するしかありません。

すでに全体の情勢は述べていますが、信長は総勢で10万を率いるほどの大勢力を形成しており、時間がたつにつれ、武田氏との戦力差は開く一方でした。

ですので、これを覆すために信長自身が出陣してきているこの機会を捉え、勝利しようとしたのかもしれません。

信長を討ち取るとまではいかずとも、打ち負かすことができれば、押され気味になっていた西方の大名たちの動きも活性化し、信長の覇道を妨げることができます。

なので、勝頼は一か八かの決戦に打って出て、天下の情勢に変化を与えようとした可能性があります。

また、勝頼はこれまでに自分が総大将として主導する戦いで、敗北を経験したことがありませんでした。

そして勝頼が成人した頃には、武田氏の勢力は既に強大になっており、一武将としても、常に有利な立ち位置で戦ってきています。

それゆえに勝頼は大敗と、そこからもたらされる惨禍に対する警戒心が薄く、好戦的な傾向が強くなっていたのでしょう。

そういった要素が合わさったことで、勝頼は決戦を選択したのだと考えることができます。

【織田・徳川連合軍に決戦を挑んだ武田勝頼の肖像】

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