武田の進軍
勝頼は部隊を4つに分け、それぞれに武将たちを配置しました。
まず右翼に、馬場信春や真田信綱・昌輝兄弟ら3千を配備します。
そして中央は内藤昌豊や武田信廉、原昌胤ら3千が、左翼には山県昌景、小山田信茂ら3千が布陣します。
勝頼自身は残る3千を率い、予備隊として後方に位置し、必要に応じて戦力を繰り出すことにしました。
そして長篠城の監視として、2千の兵をいくつかの砦に残しています。
織田・徳川の軍議
こうして武田軍が決戦を行うべく進軍し始めた頃、織田・徳川の陣営でも軍議が開かれていました。
この席で武田軍の様子を偵察してきた者が、「武田軍は陣容が整っており、容易に戦い難い様子である」と報告すると、諸将が動揺します。
特に徳川軍はこの2年前、三方ヶ原で武田軍に散々に打ち負かされた経験がありましたので、内心では怖れる気持ちが強かったことでしょう。
すると家康の重臣である酒井忠次が「昨日、間諜を放って敵軍を偵察させたが、その兵力はこちらよりもずっと少ない。戦えば必ず勝つだろう」と落ち着いた様子で述べ、これを信長が取り上げました。
「臆病な者には、草木ですらも敵兵であるように見えてしまうものだ。ひとり左衛門(忠次の通称)だけは泰然としている」と称賛し、その上で諸将に酒をふるまい、士気を高めさせます。
また、信長は忠次が得意とする「海老すくい」という芸を披露するように求め、それもまた、武将たちの恐れを和らげるのに役立ったと言われています。
奇襲作戦
こうして場が盛り上がると、忠次は別働隊を派遣して、長篠城を包囲する武田軍に奇襲をしかけることを提案しました。
戦力に余裕があることから、長篠城を救援しつつ、武田軍を動揺させる上で、大きな効果のある的確な作戦だったと言えるでしょう。
しかし信長はこれを聞くと顔色を変え、「そのような迂遠な策を取っていられるか、この田舎者め!」と厳しく叱り、宴席を退出してしまいました。
ですが、信長は判断を誤ったわけではなく、諸将が引き上げると、密かに家康と忠次を自分の陣幕に呼び寄せます。
「そなたの策は実に優れている。先ほど叱ったのは情報が漏れ、武田軍に作戦を察知されぬようにするためだったのだ」と信長は真意を説明しました。
そして馬飾りを与えて忠次を称賛しつつ、作戦をすぐに実行に移すようにと命じます。
すると忠次が軍監(監督役)をつけてくれるようにと願い出たため、信長は金森長近に500の銃兵を率いさせ、別働隊に同行させました。
家康もまた親族である松平一族の他、奥平貞能や西郷家員ら、長篠城付近の地勢に通じた武将らを含む3千人を同行させます。
これによって別働隊の戦力は3千5百となり、大雨が降る中、豊川を渡って南に迂回しつつ、長篠へと向かいました。
忠次の活躍
忠次は単独で部隊を率いて活躍できるだけの力量を持った武将でしたが、この時にもその実力をいかんなく発揮しています。
まず途中の船着山という地点に500の兵を残し、敵兵が南下した場合への備えとし、同時に退路を確保します。
そして深夜、まるで灯りのない状況下で山中を移動しました。
この時に忠次は、自ら先導して樹と樹の間に綱をつなぎ、それをつたって移動するようにと兵士たちに命じます。
山道の脇には切り立った崖があり、危険な道のりだったのですが、忠次のこの措置によって、皆が安全に通行することができました。
そして夜明け前に山越えに成功すると、山中では脱がせていた甲冑を身につけさせ、次のように命令を下しました。
もしも戦いに利がなければ、小畑より宇利を経て、設楽原の本軍に合流せよ。
このように、忠次は攻撃の失敗に備えて予備の部隊を後方に残し、退路も確保するなど、入念に指示を行っています。
おそらくは信長に提案する以前から、地理を調べて詳細な作戦案を練っていたのでしょう。
夜が明けると、忠次は部隊を3つに分け、そのうちのひとつの部隊に、中山砦に駐屯している武田軍に攻撃をしかけさせました。
すると、この奇襲をまるで警戒していなかった武田軍は慌てふためいて潰走し、鳶ヶ巣山に撤退します。
残る二つの部隊が鳶ヶ巣を前後から包囲して強襲をしかけると、守将の武田信実(勝頼の叔父)は奮戦したものの及ばず、あえなく戦死しています。
武田軍がもろくも崩れたのは、北東にある長篠城に監視の目を向けており、南から敵がやってくることは予想していなかったからでした。
守将が戦死すると、敗残兵は自ら陣営を焼き払い、そのうちの一部は南に向かって逃走しました。
すると忠次が備えとして残しておいた船着山の500の部隊に遭遇し、そのほとんどが討ち取られています。
残るいくつかの小砦の部隊は、城の監視部隊が壊滅したことを受け、砦を放棄して逃亡しており、長篠城の付近からは武田軍が完全に駆逐されました。
こうして忠次は奇襲を成功させ、長篠城の安全を確保したのでした。
これによって武田軍は退路の一方を絶たれ、ますます劣勢に陥ることになります。
決戦の準備
一方、信長は忠次の部隊が出発した後、陣営を茶磨山に前進させ、諸隊を柵の内側に配備しました。
また、柵の前まで敵を誘い込むため、佐久間信盛の部隊を左翼の柵の外に出撃させます。
信長が築かせた柵には、20〜30間(36〜54メートル)ごとに出入り口が設けられており、出撃も撤退も自在にできるようになっていました。
また、右翼の柵外には徳川軍の大久保隊を出撃させ、こちらには鉄砲隊300を付与し、敵が柵に迫って来たら、側面から攻撃ができるようにしています。
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