長篠の戦いで織田信長が武田勝頼に圧勝できたワケ

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天の与えた機会

信長は決戦が始まる前、武田軍が設楽原に進軍していると聞いて大変に喜びました。

そして「これは天の与えた機会である。味方の兵を損なわずに大きな勝利をおさめてくれよう」と発言しています。

武田軍の軍議でも見られたように、常識的に考えれば、撤退をするのが武田軍にとって最善手であり、設楽原には向かって来ない可能性が高いと、信長は予想していたでしょう。

大軍の威によって武田軍を撤退させ、長篠城を救援できればそれでよし。確率は低いだろうが、武田軍が進撃してきたら柵と鉄砲、そして戦力差を活かして討ち破ってくれよう。

そのあたりが信長が計画していたことだろうと思われます。

すると意外にも、武田軍は織田・徳川軍が準備万端で待ち構えている戦場に、のこのこと進軍してきました。

これによって、信長には武田軍に大勝利を収める絶好の機会が与えられたわけで、それが「天の与えた機会だ」という発言につながったのでしょう。

そして信長は、敵が犯した過ちを活かして勝利を収めることを、大の得意としていました。

決戦の開始

5月21日の早朝、設楽原の東に武田軍が姿を現し、ついに決戦が始まる気配となります。

すると、その出鼻をくじく事態が発生しました。

武田軍の後方、鳶ヶ巣山から煙が立ち上ったのです。

これは忠次が率いる別働隊の攻撃によるもので、それを見た武田軍の将兵たちは、砦が襲撃され、後方が敵に占拠されたのではないかと危惧を抱きます。

そうなると挟みうちにされてしまうわけで、戦いが始まる前から重大な危機に陥ったことになります。

勝頼はその様子を見て、動揺が広がる前に戦いを始めようと、全軍に「急ぎ展開し、進撃せよ!」と命令を下しました。

こうして武田軍は士気に問題を抱えた状態で、決戦の火蓋を切ることになります。

左翼の攻防

武田軍・左翼の先鋒は猛将として知られる山県昌景が務めました。

山県は敵が柵を構えて待ち構えているところに正面から突撃する愚は犯さず、柵のない側面にまで回り込もうとします。

しかし川岸にまでたどり着くと、そこは急な斜面になっており、川の流れも速く、とても渡れるものではありませんでした。

信長は敵が迂回することも考え、十分な範囲にもれなく柵を構築させていたのです。

このため、山県はやむなく柵の外に出ている大久保隊に攻めかかりました。

大久保隊は信長より付与された多くの鉄砲を備えていたため、武田軍はただちに数十人が射殺されます。

その上、大久保隊は非常に士気が高く、果敢に武田軍に突撃を敢行し、一進一退の激しい攻防戦が繰り広げられました。

徳川の意地

大久保隊が奮戦したのは、この戦いを主導するのは徳川軍であるべきだ、と考えていたからです。

これは徳川の領地である三河での戦いなのだから、主戦力は徳川軍でなければならず、織田軍はあくまで援軍である。

それを証明するためには、徳川軍は織田軍以上に大きな戦果をあげなければならない。

そのように考えていたため、大久保隊をはじめとした徳川軍の働きは、この戦場において目覚ましいものとなります。

左翼と中央の苦戦

山県隊が損害を受けて引き下がると、騎馬隊を主戦力とする小幡おばた隊が大久保隊に突撃をかけつつ、柵にも迫ってこれを破壊しようとします。

しかし柵の中から激しい銃撃を受けて果たせず、左翼では完全に武田軍の進撃が阻まれました。

また、中央では内藤昌豊、原昌胤まさたね、武田信廉のぶかどらの部隊が柵に迫りましたが、こちらも銃撃による損害が大きく、柵を倒して進撃するには至りません。

中央は回り込みなどの回避策を取る余地がないため、無謀とわかっていても柵に正面から突撃を敢行するしかなく、いたずらに被害が広がっていきます。

さながら、壁に卵をぶつけるが如くありさまだったことでしょう。

右翼の攻防

右翼は馬場信春が指揮を取り、信長がおとりとして出撃させていた佐久間信盛の部隊に攻撃を開始しました。

もとより柵の前に誘因するのが目的でしたので、佐久間隊は攻撃を受けると間もなく敗走します。

馬場隊はこれを追撃し、佐久間隊が駐屯していた小高い丘を奪取しました。

そして馬場はそこで隊を停止させ、柵の前には進まなかったので、織田軍は落胆します。

馬場は後続する真田信綱や土屋昌次まさつぐに対し、「私は思うところがあるのでしばらくここにとどまる。卿らは前進して功を立てよ」と告げ、その場に帯陣し続けました。

真田隊と土屋隊はそれを受けて進軍し、柵の前へと進みます。

すると織田軍から激しい銃撃を受けて損害が重なりますが、それに屈せずに奮闘を続け、ついに柵を突破できそうな状況となります。

圧倒的な劣勢の中で攻撃を成功させつつあったのは、さすがは武田軍と言うべきでしょう。

しかしその時、柴田勝家や羽柴秀吉の部隊が側面より姿を現し、彼らを激しく横撃しました。

勝家と秀吉は柵に迫る敵軍の勢いが強いとみるや、北側から柵を迂回して森を抜け、真田・土屋隊の脇腹をつくべく出撃していたのでした。

この攻撃によってすでに疲弊していた武田軍の右翼は壊滅し、ついに敗走に追い込まれます。

そして真田信綱・昌輝兄弟と、土屋昌次は織田軍の追撃を受けて戦死しました。

長篠の戦いというと、武田軍が柵にひたすら突撃をかけて鉄砲で撃ち取られていたような印象をもたれがちですが、実際にはそう簡単なものではなく、銃撃と合わせて激しい白兵戦も行われていたのでした。

柵もただ立てているだけではすぐに倒されますので、織田・徳川軍も槍兵部隊を繰り出して、柵の周囲で戦わせていたのです。

そこに柵の内側から銃撃を加えて支援して、武田軍を消耗させていったのが、戦いの実態だったのだと思われます。

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