秀吉の死と上杉景勝の討伐
1599年になると、天下人であった秀吉が死去します。
その死後には徳川家康が台頭し、他の大大名の追い落としを狙って活動を始めます。
そして会津に大きな領地を持つ上杉景勝に、豊臣家への謀反の疑いがあるとして糾弾し、討伐を決意します。
各地の大名たちにも動員がかけられ、一豊もまた家康に従って上杉景勝の討伐に赴くことになりました。
こうして家康が大坂から離れると、その隙をついて石田三成が家康打倒のために挙兵します。
家康は自身の権力の増大と天下の簒奪を狙っていることが明らかであり、これを防ごうというのが三成の意図でした。
そして毛利輝元や宇喜多秀家といった大大名たちと協力し、家康討伐軍を編成します。
こうして家康派と三成派に別れて、日本中で大規模な戦いが発生することになりました。
市川信定を千代の元に送り、千代は一豊に手紙を送る
この時に大名家の妻子たちは、人質とするために大坂の屋敷に集められていました。
大坂は三成らの手に落ちたため、一豊が家康に味方をすると、千代が危険に晒される可能性がありました。
このため、一豊は家臣の市川信定を千代の元に送り、その護衛をさせています。
信定は北条征伐で活躍した火矢の名手で、戦場での活躍が期待できる人材でした。
この信定を、これから大規模な合戦の発生が予想される状況下で、あえて妻の元に送ったことになります。
一豊がそれだけ千代の身を案じていた、ということなのでしょう。
一方で、千代は家臣に自分の書いた手紙と、三成からの勧誘の書簡を預け、関東に遠征している一豊の元に送らせます。
一豊はこれを受け取ると、千代の手紙に書いてあった助言通りに行動します。
その助言とは、三成からの勧誘の手紙は封を開かずに家康に差し出し、自分からの手紙を読み上げて家康に聞かせてほしい、というものでした。
一豊は家康の元におもむくと、三成からの書簡を渡して三成が挙兵したことを知らせます。
この書簡の封を開かなかったことにより、一豊は三成に味方するつもりがないと家康に表明したことになりました。
さらに千代からの手紙には「かねてから話し合っていたとおり、家康様に味方して力を尽くして欲しい」と書かれておりこれが家康を大いに喜ばせました。
各武将たちの去就が不明な中で、一豊はいち早く家康に味方をすると宣言したわけで、これが内心では味方を増やせるかどうか、不安を抱えていたであろう家康の心象を良くしました。
小山評定
家康は三成の挙兵を知ると、上杉景勝の討伐に従軍している武将たちに、小山に集合するようにと伝えます。
一豊も小山に向かいますが、道中で同じく東海道に領地を持つ大名の堀尾忠氏と出会います。
この時に忠氏は、評定の際にある提案をするつもりだと、自分の策を一豊に披露しました。
一豊はそれを聞いて感心しつつ、共に評定の席へと向かいます。
やがて小山に家康を始めとして、徳川家の重臣や、豊臣政権下の大名たちが集い、評定が始まります。
ここで家康は、「三成に味方したいと思うのであれば、妻子のことも心配だろうし遠慮なく大坂に戻ってもらって構わない」と諸大名たちに告げます。
これを受けて福島正則が立ち上がり「自分は家康に味方して憎き三成を討つ」と宣言します。
正則は秀吉子飼いの大名であり、彼が家康につくと宣言することは、他の大名たちに大きな影響がありました。
正則が味方するくらいなのだから、家康についても豊臣家に逆らうことにはならないのだろうと、諸大名たちが安心することができたからです。
そしてこれに続き、一豊が発言します。
その内容は、進軍路にある掛川城を家康に差し出すので、これを徳川家で自由に使って欲しい、というものでした。
一豊は単に家康に味方するだけでなく、城と領地まで家康に差し出し、その勝利にすべてを賭けると宣言したのです。
この一豊の大胆な申し出に家康は驚きますが、やがて喜びを現して感謝します。
これを見て他の東海道に領地を持つ大名たちも次々と同じ申し出をし、家康は何もせずに数十万石の領地を得ることになりました。
実はこの申し出は、堀尾忠氏が道中で一豊に述べたものなのですが、一豊は先にそれを言ってしまうことで、策を奪ったことになります。
こうして一豊の存在は、家康に強い印象を与えることになりました。
また、一豊は老練な武将として、豊臣家と縁の深い東海道の大名たちの取りまとめに尽力し、家康の勝利に大いに貢献することになります。
【次のページに続く▼】