山内一豊 妻の千代に助けられ、国持ち大名にまで出世した武将

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土佐守に任命されるも、その2年後に死去する

一豊は築城の名人として名高い百々綱家(どどつないえ)を家臣に迎え、土佐の統治の拠点として高知城を築城します。

高知城のあたりは低湿地であったため工事に難航しましたが、百々綱家は穴太衆(あのうしゅう)という石垣作りに長けた石工の技術者集団とつながりがあり、その力を借りて城下が整備されていきました。

こうして土佐の統治も軌道に乗り始め、1603年には朝廷から土佐守に叙任され、公的な地位も得ました。

このようにして山内氏の統治の基礎を築くと、一豊は1605年に60才で病没しています。

山内氏の家督は一豊の弟・康豊の子の忠義が、養子となって継承しました。

そして明治維新を迎える時まで、山内氏は土佐の大名家として存続しています。

千代のその後

一豊が死去すると、千代は康豊に忠義を後見させ、自身は京都の妙心寺の近くに移り住みます。

この妙心寺は臨済宗の大本山で、一豊と千代が拾い育てた湘南宗化(しょうなんそうけ)という僧侶が在住していました。

宗化は利発な子で、一豊と千代は一時、この子を後継者にすることも考えていましたが、元は捨て子であったことが広く知られていたため、家臣に諌められて断念しています。

そして間もなく寺に預けられ、僧侶として育っていました。

千代はこの宗化と関わって暮らしつつ、1000石の隠居料を得て安泰な余生を送りました。

隠居後も山内氏の創始者として忠義への働きかけは続け、徳川幕府への忠誠に励んで家を保つようにと促したり、秀吉の未亡人である高台院に贈り物をするようにと手紙を送ったりもしていました。

また、この頃には「徒然草」や「古今和歌集」などの古典に親しんでいたと言われています。

そのようにして穏やかな日々を過ごした後、1617年に60才で亡くなりました。

偶然にも、一豊と同じ年齢で世を去ったことになります。

宗化は千代の最期を看取り、その17回忌には大規模な法要を営み、妙心寺に見性閣という供養のための施設を建てています。
(これは千代の晩年の名前である見性院に由来する名称です)

一豊と千代の廟所は、この妙心寺にあります。

山内一豊の能力

一豊はこれまで見てきたとおり、軍事においても内政においてもなかなかの手腕の持ち主でした。

他の群雄たちと比べると、飛び抜けて優れた能力こそないものの、無難に諸事をこなしており、家臣に有能な人材を迎えることに努めた点を見ても、運に恵まれれば大名になれる資質の持ち主でした。

関ヶ原での動きを見るに、機略においては千代や堀尾忠氏に劣っていたでしょうが、人の助けや力をうまく活用することで、自家の発展につなげています。

自分が平凡な人間であることを自覚しており、人の助けを借りたほうがよい結果が出せると、そのように割り切れる性格だったのかもしれません。

また、人の策を奪ってしまうちゃっかりさもあったことが、最後のひと押しになったと思われます。

妻の千代は世の情勢が正確に読めるほどに聡明な人物であり、これが篤実な一豊に不足していた点を補い、その家を保って発展させるのに貢献しました。

戦国時代において、武将とその妻は共に家を守って発展させるための協力者の関係にありましたが、一豊と千代を、その大きな成功例のひとつとして見ることもできるでしょう。