天正大地震でひとり娘を失う
1586年の11月29日に、日本の中部を「天正大地震」という巨大地震が襲います。
これは日本海沿岸の若狭(福井県)から太平洋沿岸の三河(愛知県)に渡って甚大な被害を出した、日本史上でも最大規模の地震であり、一豊の居城の長浜城も全壊してしまいます。
この時に一豊と千代のひとり娘である与祢(よね)が亡くなってしまいました。
また、これを救助しようとした家老の乾和信(いぬいかずのぶ)夫婦が二次災害によって死亡するなど、山内氏にも大きな被害が出ています。
一豊と千代には他に子がなく、この時に受けた衝撃は相当に大きなものであったと思われます。
以後、この夫婦の間に子が生まれることはなく、側室を迎えて子を成すこともありませんでした。
これは当時としては非常に珍しいことで、それだけ夫婦の絆は強かったのでしょう。
しかしそのために、一豊と千代の血統が後世に受け継がれることはありませんでした。
掛川5万石の領主となる
1590年から関東の北条氏征伐が行われ、一豊も秀次に従ってこれに参加します。
そして北条氏の重要拠点である山中城の攻略戦に参加し、火矢の名手である家臣の市川信定が活躍するなどして、山内氏は軍功を立てています。
この頃には一豊も500人程度の兵を率いるようになっており、家臣の中には名の知れた武勇の士も加わっていたようです。
この戦いの後、秀次が尾張や伊勢を加増され、これにともなって一豊は遠江(静岡県西部)の掛川に新たに領地を与えられます。
この時の石高は5万1千石で、中級の大名の地位にまで昇ったことになります。
一豊は掛川に着任すると、城下町の整備や治水工事などを行い、領主としての治世を開始しています。
このようにして、段階を追って大名としての経験を積んでいきました。
主君の秀次は秀吉の後継者であり、将来はもっと多くの領地を担うことになるはずで、そうなれば家老である一豊の将来もまた、さらに開けていくはずでした。
しかし秀吉に実子が生まれたことにより、状況は大きく変化していくことになります。
秀次が処刑される
秀吉は側室の淀殿が実子の秀頼を生んだことで、それまで後継者として育成していた養子の秀次のことを、急に疎んじるようになります。
そして秀吉は秀次が謀反を企んでいると糾弾し、ついに継承させていた関白の地位を剥奪してしまいました。
この時に秀次の側近であった前野長康(かつての一豊の主)は責任を追求されて自害しています。
しかし一豊や田中吉政、中村一氏らの秀次傘下の大名たちは、秀次を取り調べる立場に立たされ、これを務めることで難を逃れています。
とは言え、つい先ほどまで主君だった相手に「謀反の企みがあったのか」と質問するのは、なかなかに心苦しい行いだったでしょう。
秀次は謀反の嫌疑を否定し、高野山に登って出家しますが、秀吉の命を受けた福島正則によって切腹させられています。
こうして一豊は危機を生き延び、秀次の遺領から8000石を加増されています。
しかしこれはとても喜べる加増ではなかったと思われます。
秀次を処刑してしまったことで、豊臣家からは成人して地位をもった男子がいなくなってしまい、政権の基盤はひどく不安定なものとなってしまいます。
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