酒井忠次 四天王筆頭とされ、家康を支えた名臣の生涯

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信康事件

1579年になると、忠次が重大な失態を演じた、とされる事件が発生します。

それは家康の嫡男である、信康が処断された事件でした。

江戸時代に作られた書物に、次のような経緯が記されています。

信康は信長の娘である徳姫と結婚していたのですが、不仲でした。

徳姫はこれを恨むようになり、信康の非道な行いと、武田氏に内通していると訴えた手紙を父に送ります。

これを伝えたのが、信長のもとに使者としておもむいた忠次だったとされていました。

そして忠次が信長に詰問されると、忠次は手紙の内容を認めたので、信長が信康を処刑するよう家康に命じた、ということになっています。

家康と信康の不仲が原因だとされている

上記の説は不自然だとして、現在では別の説が唱えられています。

当時の記録には忠次が信康の事件に介入したものはなく、家康が信康と徳姫の不仲を仲裁しようとしたことが記されています。

それから家康は、段階的に信康への締め付けを厳しくしていきました。

信康は西三河の拠点である岡崎城にいたのですが、家康は三河の武士たちに、岡崎城に出仕することを禁止します。

それから、ついには信康を岡崎城から追い出し、岡崎城に所属する武士たちに、信康と連絡を取ることを禁止しました。

その上で、信康を他の城に移して監視下に置き、やがては切腹を命じて処断したのでした。

この過程において、家康は信長と連絡を取るのですが、すると信長は「家康殿のよいようにされよ」と返事をしただけでした。

この経緯から、実際には家康と信康の関係が悪化し、信康がとうとう岡崎衆を巻き込んで謀反を企むまでになったので、家康が処断せざるを得なくなったのだろう、と見られています。

信康は気が強く傲慢な性格で、父にも反抗的だったようで、後に家康は子育てに失敗したことを悔やむ発言をしています。

処断する前に信長に連絡したのは、信康がその娘婿だったからで、許可を得る必要があったからです。

このように、実際には信康の処断は家康が主導したもので、信長の命令ではなかったのでした。

忠次は後世の曲筆によって、濡れ衣を着せられた可能性が高くなっています。

その証拠に、この後も忠次は家康から重用されていますし、未亡人となった徳姫は、後に徳川家から2千石の領地を与えられています。

もしもこの2人が嫡男を陥れたのであれば、家康がこのように扱うのは不自然で、旧説が誤りであることを示しています。

また、これまでの忠次の、忠義と精勤ぶりから見ても、主君の嫡男に不利になるように動いたというのは、考えにくいところです。

天正壬午の乱において、信濃に攻め込む

その後、1582年の6月になると、信長が本能寺の変で討たれ、各地は混乱に陥ります。

この時、家康と忠次を含む重臣たちは上方に滞在していましたが、伊賀を越えてなんとか領地まで帰り着きました。

そして織田軍が占拠した信濃や甲斐から撤退していると聞き、この両国を抑えようとして動き始めました。

この時には、すでに武田氏は滅ぼされています。

忠次は信濃方面の攻略を任され、6月下旬には信濃南部への侵攻を開始します。

そして伊那いな郡の武士を味方につけて北上しますが、諏訪郡の諏訪頼忠が徳川に味方することを拒んだので、ここで戦線が停滞してしまいました。

この結果として、信濃の中〜北部には、徳川軍が侵攻することができなくなっています。

これは忠次にしては、珍しい失敗となりました。

家康から信濃の統治を任される

一方で、この時期に家康から忠次に書状が送られており、信濃12郡の統治を任せる旨が伝えられています。

これには税金を漏れなく徴収し、徳川への奉公を怠る者がいれば追放せよと告げており、家康が厳しい態度で信濃を治めようとしていたことがうかがえます。

結局、信濃の豪族である依田よだ信蕃のぶしげが徳川方について活躍し、真田氏などの有力氏族を味方につけることで、信濃は統一されていきました。

また、家康も北条軍との決戦に勝利して甲斐を確保し、これによって家康は五カ国を束ねる大勢力を確立しています。

井伊直政の取り立てに賛成する

家康は武田の旧領を手に入れると、元家臣たちを仕官させ、これを井伊直政につけて、新しく精強な部隊を編成することにしました。

直政は若手であり、家康の側近でもありましたので、これによって若い世代の取り立てと、側近の起用を押し進めていく、という方針を取ろうとしていたのです。

徳川軍の中で、世代交代が起ころうとしていたのだと言えます。

すると面白くないのが従来の重臣たちで、特に榊原さかきばら康政はこれに怒り、直政と刺し違えてでも止める、と息巻いていました。

すると年長である忠次が康正に対し、「直政に甲斐の侍をつけたのは主君のなされたことだ。軽々しいふるまいをしたら、その方の一門を串刺しにするぞ」と言ってしかりつけます。

これによって康正がおとなしくなりましたが、忠次は直政に旧武田兵をつけることに賛成しており、若手の台頭を妨げるようなことはありませんでした。

円満な人柄の持ち主だったのだと言えます。

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