首が飛んでいったという伝説
こうして将門は死去しましたが、その後も将門の存在は消えず、様々な伝説が生まれ、また祀られるようになりました。
将門の首は、京に送られてさらし者にされましたが、何ヶ月が過ぎても目を見開き、歯ぎしりをしているような表情をしていたといいます。
そして首が「体をつけてひと戦しよう。俺の首はどこだ」と言って、その声が夜ごとに響きました。
そしてある夜、首が胴体をもとめ、光を放って東に飛んでいったので、首塚は京にはないのだ、という話になっています。
このため、将門の首が落ちたとされる場所に、複数の首塚が作られることになりました。
当時の人々はよほどに将門を恐れる気持ちを持っていたようですが、神社仏閣にすがるような、信心深さが強まっていたことが影響しているのでしょう。
徳川氏との関係
その後、徳治(1303-1308年)のころ、遊行上人(一遍の弟子)が村民に請われ、神田で将門の菩提を弔い、道場を開きました。
将門の墓は神田に存在していたと言われており、死後の縁が深い土地となっていたのです。
この時の道場がやがて神田山の日輪寺となりましたが、そこに徳阿弥という者が参籠し、上人の弟子となります。
この徳阿弥は、やがて三河に行って松平氏の婿となり、徳川氏の祖先になったと、そのような伝承が存在しています。
これが史実なのかは不明ですが、徳川氏が代々、将門を尊重したのは事実です。
家康は関東に入府して以来、将門が祀られた神田明神を格別に崇敬し、領地を寄進し、祭祀の礼を怠らないように、という通達を出しました。
そして「江戸総鎮守」として、江戸の霊的な守りを委ねています。
また、二代秀忠の時に社殿や神宝、祭器などが将軍家から寄進されました。
そして三代家光の時には、勅使として江戸に下向した烏丸光広に対し、将門の事跡を伝えた上で、「将門の罪を許すように」と要請がなされます。
これを受けた光広が「将門は朝敵に非ず」と奏上したことで、朝敵の指定が取り除かれ、およそ700年ぶりに名誉が回復されています。
徳川氏の意図
このようにして、将門が徳川氏に尊重されたのは、江戸において密かに崇拝を集め続けていた将門を祀るのは、統治上有効な措置だった、というのが理由として考えられます。
そして徳川氏は朝廷を押さえ込むことで、権力を維持した存在ですので、朝廷に反逆した将門を祀り、その名誉を回復させるのは、自分たちの権威を示す上で、効果のある行いだったのでしょう。
将門は、朝廷とは異なる権力を確立しようとした者、という意味では、徳川氏ら武家政権の先駆者でした。
なお、神田明神はこの時期に、江戸城の鬼門にあたる位置に移されており、これが現在地になっています。
明治維新後に再び朝敵とされる
しかし1868年に明治維新が発生すると、徳川氏の影響力がなくなったことで、将門は再び朝敵とされました。
そして1874年には神田明神の祭神からはずされ、将門神社に移されています。
こうして再び将門の扱いが悪くなりましたが、それが思わぬ事態を発生させました。
関東大震災が発生し、大蔵省が再建された際に、新しい庁舎は神田明神の跡地に建てられることになります。
そして将門の首塚は主計局のバラックの下に入れられ、毎日のように踏みつけられるようになっていたのでした。
それほどに将門は軽視されるようになったのですが、するとやがて、当時の大蔵大臣や課長など、十数人が在職のままで亡くなる事態となり、足をケガする人や、病人も増えていきます。
「これはもしや将門の祟りではないか」と恐れた大蔵省の役人たちは、食堂を祭場とし、神田明神から司祭を招いて鎮魂祭を行い、怨霊を鎮めようとはかったのでした。
このように、近代になってもなお、将門の影響力は消え去らなかったのです。
戦後になって再び見直される
こうして将門の立場がいくらか改善しましたが、太平洋戦争の敗北によって天皇崇拝の風潮が薄れると、再び将門の地位が向上し、「新皇を名のって新しい時代を切り開こうとした人物だ」として再評価されるようになります。
そして大河ドラマの主人公にもなり、人気が高まった影響もあって、再び神田明神に合祀されています。
このようにして、将門は中世から現代に至るまで、うずもれることなく、人々の心に影響を及ぼす存在としてあり続けているのでした。
天皇を中心とした権力への評価と、将門への評価は、反比例するようにして変化していっています。
時に権力が腐敗し、人々を苦しめることがやまない限り、将門が持つ反逆者としての存在感が、消滅することはないのでしょう。