追撃をして国府を焼き払う
将門は戦勝の勢いに任せて追撃をかけ、常陸の国府にまで押しよせます。
そこで維幾は弁解をしましたが、将門はこれに耳を貸さず、数百棟の庁舎を焼き払いました。
このあたりはやりすぎの感がありますが、将門はここにおいて、一線を越えてしまったのだと言えます。
自分から挑んだ戦いではなかったものの、玄明を引き渡さなかったことと、国府を焼いたことは、はっきりとした官に対する反逆行為でした。
将門は維幾を捕縛した後、国司の印璽を奪い、京に追い返しています。
関東の制圧を勧められる
やがて下総に帰ってきた将門を興世王が迎え、次のように言いました。
「いま、情勢を考えますに、讒言はすでに用いられ、一国を襲撃した責任は軽いものではありません。
ですので、板東(関東)の諸州を鎮圧し、武威を近国に輝かせ、しばらく形勢をみるのがよろしいでしょう」
このようにして、将門に謀反を勧めたのでした。
興世王が言うとおり、国司を攻め破り、国府を焼き払った以上、将門が罪人として扱われるのは避けがたい情勢でした。
なので将門はこの言葉を受け入れ、ついに関東を制圧することを決意します。
この判断には、度重なる朝廷の無理解に、うんざりし、失望していたことが強く影響していたでしょう。
この時に将門は「板東八州を制し、王城(京)をも分捕ってくれよう」と述べたのだという話もありますが、後に出てくる書状からすると、作り話である可能性が高いように思われます。
各地を攻め取る
939年の12月11日になると、将門は下野に出陣し、国司の藤原公雅から印綬を差し出されました。
これを受け取った後、公雅を国外に追放します。
さらに15日に上野(群馬県)に兵を進めると、こちらでは4日後の19日に国府の占拠に成功しました。
こうして、10日足らずというわずかな期間で勢力を拡大した将門は、さらに思い切った行動に出ます。
新皇を名のる
将門が上野の府庁に入ると、やがてひとりの昌伎(巫女)がやって来ました。
そして神がかった様子で将門に告げます。
「私は八幡大菩薩の使いである。
朕が位を蔭子(親王)平将門に授け奉る。
その位は左大臣・藤原朝臣の霊魂に託して表そう。
いま、すべからく三十二相の音楽をもって、早くこれを迎えるべし」
これを聞いた将門は頭を下げて再拝し、周囲にいた者たちはみな喜びました。
そして興世王と常陸掾・藤原玄茂らが特に喜び、将門に『新皇』という号を名のることを勧めます。
将門はこれを受け入れ、新皇を称して関東に君臨することを決意したのでした。
除目を行う
そして将門は独自に除目(国司の任命)を行い、自分が中心となって関東各地を支配することを宣言します。
具体的には、以下のような内容でした。
下野守:平将頼(弟)
上野守:多治経明
常陸介:藤原玄茂
上総介:興世王
安房守:文屋好立
相模守:平将文(弟)
伊豆守:平将武(弟)
下総守:平将為(弟)
このように、半分の国で弟が任官されており、将門の一族が中心となった反乱だったことがわかります。
それに興世王のような一部の貴族・豪族などが加わっていたようです。
こうして将門は、さらに一歩踏み込んだ形で、朝廷からの独立を宣言したのでした。
結果からすると、これは無謀かつ短絡的な判断だったのですが、一方においてこの行動が、将門の名を歴史上に、深く刻みこませる要因になりました。
これによって、将門は単なる地方の反乱勢力ではなく、朝廷への挑戦者という立ち位置を得たからです。
これは当時の年号をとって「天慶の乱」と呼ばれています。
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