平将門 新皇を名のって天慶の乱を起こすも、藤原秀郷に討たれた反逆者

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検非違使になりたいと希望するも、かなえられず

将門は都に12年もとどまり、滝口の武士を勤めました。

そして軍事や警察を司る検非違使けびいしすけ(次官)やじょう判官はんがん)になりたいと希望したのですが、これがかなえられることはありませんでした。

しばらく後の時代では、平氏や源氏の有力者が検非違使になることが多かったのですが、将門はまだ年若く、軍事的な実績もありませんでしたので、都で地位を得ることはできなかったのでしょう。

(余談ですが、後に源義経は検非違使の尉となり、これによって「九郎判官」と呼ばれるようになります。「判官びいき」の語源です)

やがて将門は相馬御厨みくりや下司げし(荘園の管理者)に任命され、故郷に戻ることになりました。

結局のところ、将門は都において、志を得ることはできなかったのでした。

とは言え、中央の実力者との結びつきは作れましたので、一定の目的は果たせたのだとも言えます。

故郷に戻るも、騒乱の種が生まれていた

将門は豊田郡に戻り、荘園の管理を行いつつ、私田の拡大にも取り組んでいきました。

しかしながら、将門が戻った時には、伯父の国香や良兼らに、父の私田が横領されており、これが争いの種になったのだと言われています。

あるいは、まだ将門が若かったので、成人するまでの間、父・良将は兄たちに私田を託していたのですが、将門が戻ってきても返さなかったのだ、という説もあります。

いずれにしても、将門は伯父たちとの間に、土地をめぐる争議を抱えることになったのでした。

将門には他に九人もの兄弟がおり、彼らと力を合わせ、家を守っていくことになります。
(兄二人は史書に登場しないため、早世していた可能性があります)

源護一族との争い

先に触れた通り、伯父たちは常陸の豪族・源護と血縁関係にありました。

この源護は、平真樹まさきという別の豪族と、土地をめぐる抗争を起こしていたのですが、ある時この真樹は、将門に調停を依頼してきます。

将門は伯父たちに対抗する必要があったことから、真樹に協力し、その娘と結婚しました。

この結果、常陸のあたりでは、平国香・良兼・源護の一派と、平将門・真樹の一派に別れての抗争が発生することになります。

ちなみに、この平真樹は高望の血統ではなく、遠い親戚といった間柄だったようです。

将門は襲撃されるも、反撃して勝利する

こうして対決の機運が高まりますが、ついには源護の子であるたすくたかししげるの三兄弟が主謀し、将門を襲って殺害しようとする計画を立てるようになります。
(これは「女性をめぐって争ったのだ」という記録もあるのですが、詳細は不明です)

これに国香や良兼も加わって、野本村に陣を張り、将門を威圧してきました。

このため、将門は一族を集め、彼らを指揮して抗戦します。

この時代では、まだ地方の豪族に大軍を動員できるほどの実力はありませんので、千〜数百人程度のぶつかり合いだったと思われます。

戦いが始まると、将門方は風上に位置することになったため、放つ矢がことごとく敵に命中し、大きな打撃を与えました。

源扶らも必死に働いたものの、将門の敵ではなかったようで、この一戦で三兄弟が全員、討ち死にしています。

敵を壊滅させる

将門は勝ちに乗じて敵地に攻めこみ、源一族に協力した者たちの家を攻撃し、その本拠である真壁の居宅を焼き払います。

この時の焼き打ちは五百戸にも及んだとされており、源一族はすっかりと勢力を失いました。

さらに、伯父の国香は負傷して自分の館に戻っていたのですが、ここも焼き打ちにあい、国香は焼死しています。

こうして将門は敵の大半を、一気に壊滅させてしまったのでした。

これによって、将門は相当に武勇に秀でた人物だったことがわかります。

しかしこれで争いは終わったわけではなく、常陸と上総、下総には、戦乱の時が訪れることになりました。

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