朝廷に対する反逆ではなかった
この時の戦いは、平氏一族と、血縁関係にある豪族たちの私闘であるにすぎず、朝廷に対する反逆ではありせんでした。
将門自身にも、反逆の意志はなかったと思われます。
しかしこの後にも続いた抗争によって、やがては国府を巻き込む事態に発展していくことになりました。
貞盛が帰郷する
国香の長男は貞盛といい、この頃には京に在住し、左馬允(官馬を管理する役所の三等官)の地位にありました。
そこで父や、縁者である源護の子らが戦死したことを知らされます。
貞盛は悲嘆にくれたものの、当初は将門と敵対する意志はもっていませんでした。
「将門は本意の敵ではない。
私は源氏の縁者であり、義母は私でなければ、誰も養う者がいない。
田地がたくさんあるが、私でなければこれを領する者がいない。
ことわざに、卑しき者は尊き者に従い、弱き者は強き者に従うという。
だから将門に恭順し、親しくするのがよいだろう」
このように述べ、将門と直接対面し、和解しようとしました。
しかしながら他の平氏一族の思惑によって、戦いが収まることはありませんでした。
平良正が戦いを挑んでくる
国香と良兼の他に、将門には良正という叔父がいました。
高望王の妾腹の子で、彼もまた源護の娘と結婚をしています。
つまり兄の国香と、義兄弟たちを将門に殺害されていたのでした。
このため、良正は義父の源護とともに、良兼と貞盛を説き、再び将門に対する共同戦線を構築しようとします。
将門は勝利するも、敵が結束する
将門は敵勢力が再び首をもたげていると知ると、弟たちと郎党を集め、新治郡の川曲村に出陣しました。
すると良正が軍勢を率いて襲撃してきましたが、将門はこれを撃破し、敵兵六十を討ち取ります。
このため、良正の軍勢は四散して逃げ去りました。
しかし良正はこの敗戦に屈せず、兄の良兼に書状を送って援助を求めます。
良兼は源家が悲惨な境遇に陥っていることを述べ、「縁者なのだからこれを傍観するわけにはいかない」として、良正とともに戦うことにします。
さらに良兼は、将門と戦う意識が乏しかった甥の貞盛を説得し、戦いに引き込みました。
貞盛もまた源家の縁者であることから、これを断り切れず、下野(栃木県)の国府へと出陣します。
将門は勝利するも、良兼らを逃がす
将門はこの事態に対し、百人の兵を率いて国府に向かってみると、良正・良兼・貞盛らは千人もの兵を集めており、侮れない勢力となっていました。
しかし将門は「伯父の良兼は軍事になれぬ人であるから、恐れるには足りない」と述べ、士卒を励まして攻撃を開始します。
将門らが弓を射かけると、たちまち八十人の敵兵を討ち取ることができ、良兼は将門が予測したとおり、この勢いを恐れて逃げ出しました。
将門はこれを追跡して追いつめますが、「伯父を殺害したとなると、世間の物議をかもし、悪評を得ることは避けられぬだろう」と述べ、わざと西の方を開け、良兼らが逃げられるようにします。
すると残った敵はそちらの方から逃げ出し、戦いは将門の勝利に終わりました。
先の戦いで国香を焼死させていましたが、この時のふるまいを見るに、事故のようなものであり、将門の狙ったことではなかったのかもしれません。
ここまでの戦いは、将門は挑まれて応じただけであり、非難されるようなところはなかったと言えます。
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