朝廷の審問を受ける
このようにして、力で将門に勝利することはできなかったので、源護は朝廷に将門のことを訴えました。
このため、将門を召還する官符が二度も届きます。
これを無視することはできず、将門は上京して旧主・藤原忠平に事情を述べた上で、検非違使所に出頭して審問を受けます。
将門はここで陳弁を行った結果、罪は軽いものだと認められました。
そしてちょうど二条天皇が元服したこともあって(937年)、都に祝賀の空気が満ちる中、罪科を問われずにすみ、無事に下総に帰還することができました。
帰還するとすぐに攻撃を受ける
将門はこの年の8月ごろに下総に戻りました。
この頃はまだ街道が整っておらず、長距離の旅は過酷なものでしたが、その疲れも癒えぬまま、将門は良兼から再び攻撃を受けることになります。
良兼は選りすぐった兵を率いて下総に向かい、父である高望王の霊像を先頭に押し立てて士気を高め、襲いかかってきました。
この時、将門は兵を集められなかったため、戦いの不利を悟って撤退します。
すると良兼は豊田郡にまで押しよせ、焼き打ちをしてから引きあげていきました。
敗北して妻子を失う
将門はこれを恨み、兵を集めて武器を整え、復讐を誓います。
そして堀越の渡しに布陣して良兼を迎え討ったのですが、将門は突然、脚の病にかかり、意識が朦朧として指揮が取れなくなりました。
京から下総に戻り、すぐに戦いが始まったので、疲労が蓄積し、このために発病してしまったのでしょう。
この結果、将門は初めて大敗を喫し、味方の兵が蹴散らされ、領地の民家はことごとく焼き払われてしまいました。
将門は病を養うために逃げのび、葦津江というところに潜伏します。
そして妻子とは別行動を取っていたのですが、妻子が船に乗って岸にこぎ寄せたときに、良兼の追撃部隊に補足されます。
妻子はその場で殺害され、物資も奪われてしまいました。
これに将門は悲しみと怒りを覚え、平氏一族の闘争は、ますます激しいものとなっていくのでした。
将門の妻
この時に亡くなった将門の妻は、盟友である平真樹の娘だったと言われています。
将門には他に、良兼の娘(将門のいとこ)も妻となっていました。
良兼とは仇敵の間柄になっていましたが、こうなる前には縁組みを行っていたようです。
その後、関係がこじれ、良兼の娘はいったん実家に戻されていたのですが、兄弟たちの協力を受け、再び将門の元に戻っていました。
そしてこの妻と弟たちが、はかりごとをめぐらして将門の再起を助け、豊田郡に戻れるようにと取り計らっています。
つまり妻とその弟たちは、父・良兼の敵である将門のために動いていたのです。
親族間の抗争だったので、このように、人間関係が錯綜していたのでした。
将門が復讐する
良兼は将門に勝利した後、常陸に戻って源護を訪ねました。
源護は子供たちを将門に殺害されていましたので、勝利を報告して慰めようとしたのでしょう。
将門はこれを知ると、復讐のために千を超える兵を集め、9月半ばに常陸に攻めこみます。
そして良兼の勢力圏にある服織宿をはじめ、各地を焼き払いました。
その後、良兼が筑波山に逃げ込んだので追撃をかけますが、寒気が強まって来たのと、山中にいる敵に打撃を与えるのが難しかったので、将門はやむなく引きあげています。
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