平将門 新皇を名のって天慶の乱を起こすも、藤原秀郷に討たれた反逆者

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成果なく引きあげる

この時は10日ほど常陸に帯陣しましたが、これといった成果を挙げることなく帰還し、集まった兵たちをねぎらってから解散させました。

しかし独立宣言をしてからすぐに時間を空費し、兵を無駄に動かしてしまったことが、将門にとって致命的な事態を引き起こすことになります。

ここはまず、各地の豪族を手懐けるなりして、関東の支配体制の確立に時間と労力を注ぐべきだったでしょう。

『将門記』では「新皇は井戸の底のような浅い考えによって行動し、広く深い考えは持っていなかった」と厳しく評されています。

将門の勢力には、参謀役が欠けていたのでした。

藤原秀郷が参戦する

この頃、下野では藤原秀郷ひでさとという押領使おうりょうし(軍事・警察を司る職)が勢力を築いていました。

若い頃は暴れ者であり、かつては乱行のかどで国府から追討令を出されたことがあります。

どこか将門に似た経歴の持ち主だったと言えます。

秀郷は、将門が新皇を名のったと聞くと、どのような人物なのだろうかと興味を抱き、会いに行きました。

しかし将門は食事の途中で、服装も乱れた状態で秀郷に面会をしたので、こんな軽率な人間には従えない、と思って離れていった、という逸話があります。

これは将門を貶めるための創作の可能性が高いのですが、秀郷が将門に好意を抱かなかったのは事実なのでしょう。

秀郷は貞盛の叔父(姉妹が国香の妻)という血縁関係にあり、やがて貞盛から支援要請を受けると、兵を動かして将門の討伐に協力することにします。

そして秀郷と貞盛は四千の兵を集めると、将門に合戦を挑んできました。

将門は迎撃に出る

将門は秀郷と貞盛が兵を集めていると知ると驚き、2月1日に、これを迎え討つために出陣します。

しかし多くの兵士を国元に返したばかりだったので、手もとにいたのは千人程度でしかありませんでした。

反乱を起こせば、自然とどこかしらで討伐軍が発生するのは必然でしたが、ずいぶんと油断をしていたようです。

将門が敵軍の位置を探るために山に登ると、やがて秀郷と貞盛の軍勢が姿を現しました。

すると副将の藤原玄茂らが、将門と連携せずに、勝手に攻めかかってしまいます。

秀郷は老練で、武略に優れた人物でしたので、少数で挑みかかってきた部隊を蹴散らし、その多くを死傷させました。

そして川口村にまで進出してきたので、将門はこれに攻めかかりましたが敗北し、撤退せざるを得なくなります。

こうして将門は短期間で、一気に窮地に陥ったのでした。

まだ反乱を起こしたばかりで組織が固まっておらず、その虚をつかれたのだとも言えます。

兵が集まらぬものの、迎撃の準備を整える

勝利した秀郷らはこのまま将門を討ち取るべく、追撃をかけてきます。

そして2月13日には将門の居住地一帯に火を放ち、与力や縁者たちの屋敷を焼き払いました。

将門は甲冑に身を包み、各地から兵が集まってくるのを待ちましたが、すぐには誰もやってこれませんでした。

1月に出陣したばかりだったので、準備が間に合わなかったのでしょう。

このため、将門の元には四百の兵しか残っておらず、敵の十分の一の戦力でしかありませんでした。

将門は幸島さしま郡の岩井に陣をはり、敵がやってくるのを待ち構えます。

ここで戦場を放棄し、味方の元に逃げる手もありましたが、将門はそれまでの戦歴から、少数であっても勝ち目があると判断したようです。

そして14日になると、秀郷と貞盛らが姿を現し、午後二時ごろから決戦が行われました。

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