石川数正はなぜ徳川家康の元を出奔したのか

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家中での立場がさらに悪化する

しかし徳川の家中では、秀吉に対する主戦論が強まっていました。

小牧・長久手の戦いでは局地戦で大勝を収め、秀吉に対しても一歩も引かないところを見せつけていたからです。

しかしその後、同盟相手の信雄が秀吉に切り崩されて講和してしまったために、徳川もまたやむなく講和することになりました。

このような経緯でしたので、徳川家中では自分たちは負けていない、まだまだ戦えるとする意見が強く、その中で秀吉へ従うことを勧める数正の立場は悪化していきます。

また、秀吉と直接交渉にあたっていましたので、秀吉に籠絡されているのではないかと疑われることにもなりました。

酒井忠次や本多忠勝らが主戦派で、特に数正と対立していたとされています。

かねてより、信康の件によって数正の立場は悪化しており、味方が少なくなっていました。

数正は秀吉との戦いのさなかで、家中での孤立がますます深まったことで、このまま徳川氏の元に留まるのは難しい、と考えざるを得なくなったのではないかと考えられます。

それにこのままですと、自分も家康も、どちらも秀吉によって滅ぼされてしまうのでは、という危惧も発生していたことでしょう。

改名し、出奔する

1585年になると、数正は「康輝」に改名しています。

これは家康の「康」の字をもらったのですが、この急な改名には、数正の立場が悪化したことを受け、家康が数正を守るために行った措置だったのではないかと考えられます。

これによって家康から数正への信任があることを、家中に示そうとしたのでしょう。

しかし同時に、家康が数正の動向に不安を感じていた、ということの表れでもあったかもしれません。

これは3月のことでしたが、しかし11月になると、数正は突如として秀吉の元に出奔してしまいました。

その動機について数正は明らかにしていませんが、これまでの流れからして、数正は家中での立場が悪化し、将来の展望が見えない状況になっていました。

このため、家康個人への忠誠心は残っていたとしても、徳川氏からは出ざるを得ない、と判断したのでしょう。

居づらくなった徳川氏にこだわるよりも、天下人である秀吉に仕えて展望を開こうとしたのは、特に不自然なことではありません。

軍政改革が行われる

数正は徳川氏の軍制や領内の情勢に深く通じていましたので、これは徳川氏にとって大きな痛手となりました。

このため、家康は自分の旗本たちを中心とした、新しい軍団の編成に取り組むことになります。

三河以来のやり方を改め、新しく旧武田氏の家臣たちを仕官させたこともあり、武田氏が用いていた戦法を多く取り入れています。

幼いころからの忠臣だった数正が去ったのは、家康にとって残念な事態だったでしょうが、軍制を改め、側近の若手を起用するためのよいきっかけになったのだとも言えます。

その代表格が井伊直政でした。

松本城主となる

秀吉は出奔してきた数正を迎え入れると、河内に8万石の領地を与えました。

そして秀吉は数正に一字を与え、「吉輝」に改名させます。

康輝から吉輝に名前が変化したことによって、名実ともに数正と家康の縁が切れたことになりました。

秀吉からすると、敵対する勢力から寝返ってくれば厚遇する、と示すことで、自分の味方を増やしやすくなっていきますので、数正は歓迎されたのでした。

その後、1590年に北条氏が征伐されると、家康は関東に移封されます。

そして空いた信濃の松本に数正が加増移封され、10万石の大名になりました。

数正はここで精力的に活動し、松本城を築城し、街道を整備して流通網を構築し、城下町を建設するなどして、松本が発展するための基盤づくりに取り組んでいます。

この時、数正が築城に着手した松本城は、現在では国宝になっています。

もともと有能な人物でしたが、独立した大名になったことにより、その手腕がいかんなく発揮されたのだと言えます。

そういった意味では、出奔したのは決して失敗ではありませんでした。

しかし長年仕えた主君と離れ、追われたような形になったことについて、数正がどのように思っていたのかは、当人が何も語っていないので不明なままとなっています。

語らなかったことから、その胸のうちには苦いものがあったであろうことがうかがえます。

数正は松本に移封された3年後、1593年に61才で亡くなっています。