土佐の統一
残る主な土佐の勢力は、西部を支配する一条氏ですが、これは安易に攻め滅ぼすわけにはいきませんでした。
まず、父の国親の代に長宗我部氏が失った領地を取り戻せるよう、取り計らってくれた恩があります。
その上、一条氏は土佐で崇拝されている家柄だったからです。
一条氏は幾人もの関白や摂政を輩出している藤原氏の一族で、京都が戦乱で荒れたのをきっかけに土佐に移住して来ました。
土佐に移っても引き続き高い官位が与えられていて、天上人として土佐では崇拝されていました。
そのような一族を攻め滅ぼして領地を奪ったとなれば、元親の評判は地に落ち、離反するものも現れるでしょう。
そこで元親は一条氏の内紛を利用することにします。
評判が悪かった一条家の当主・兼定を家臣たちに追放させ、その子である内政に後を継がせます。
そしてその内政と自分の娘を結婚させることで傀儡とし、土佐の統一に成功しました。
これが1574年のことで、足かけ14年ほどで、元親はようやく一国の主になれました。
かなり時間がかかったように思えますが、もともと長宗我部氏は土佐の七分の一程度の勢力でしかありませんでしたので、致し方のないところだと言えるでしょう。
ともあれ、これでようやく土佐の外に打って出れる体制が整ったことになります。
信長との同盟
【元親と同盟を結んだ織田信長の肖像】
この頃には、織田信長が尾張・美濃・伊勢・近江・山城といった国々を支配下においており、日本の中央部を支配する大勢力に成長していました。
元親が土佐の統一に奮闘している間に、信長の勢力は飛躍的に伸びていて、かなりの差がついていたことになります。
元親はこの信長に使者を送り、同盟を結びます。
土佐の外に打って出ると、元親に攻めこまれた勢力は、四国の外にある他の大勢力に支援を求める可能性が高くなります。
それは中国地方の覇者である毛利氏であったり、近畿地方を制覇しつつある織田氏であったりするでしょう。
そのため、織田氏に支援を要請されてもそれに応じないよう、外交的な手段をとったわけです。
この同盟は、夫人の実家である斎藤氏を通じて織田氏と関係を持っていたこともあって、首尾よく成立します。
この頃の信長はまだ近畿周辺に多くの敵を抱えていたため、四国にまで手を出す余裕はありませんでした。
だから元親と有効関係を作り、彼に四国を抑えさせてもよいと考えていたようです。
鳥なき島の蝙蝠
元親と接触を持つようになった信長は、元親のことを「鳥無き島の蝙蝠(コウモリ)」だと評しました。
鳥がいない島だから、ちょっと空が飛べるからといって、コウモリごときが大きな顔をしている、と揶揄したわけです。
おそらく元親に「あまり調子にのるなよ」と牽制する意図があったものと思われます。
ともあれ、元親は信長から「四国は切り取り次第」という朱印状を受け取り、土佐から伊予・阿波・讃岐といった地域へと侵攻を開始します。
元親は四国制覇を目指す理由を、家臣たちに十分な恩賞を与え、安全に暮らせるようにするには、土佐一国だけでは不十分だからだ、と語っています。
しかし、本当にそれだけだったのかは、後の元親の行動を見ていると、いささか怪しいものだと思えます。
元親には、四国を統一し、その先の天下を目指したいという野心が、ひそかに燃えていました。
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