真田幸村はどうして大坂城の南に真田丸を築いたのか?

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休戦と真田丸の破却

その後、大坂城の守りの堅さを再認識した家康は、無理に攻めかかることはしませんでした。

直接攻撃はせず、長距離砲を用意して大坂城に砲撃を浴びせ、その戦意をくじこうとします。

砲弾は大坂城の実質的な主である淀殿の居住区にまで届き、その侍女を死傷させるなどしました。

この結果、休戦交渉が行われることになり、大坂城の外周部の堀を埋めることで話がまとまります。

しかし、家康は約束を違えて堀をすべて埋めつくしてしまい、大坂城は丸裸となり、防御力が著しく損なわれます。

真田丸もまた、この時に取り壊されてしまいました。

幸村ひとりの武勇では、ついに戦況を覆すにはいたらなかったのです。

休戦期になると、真田丸の戦いによって一躍名をあげた幸村の元に、家康からの使者がやってきます。

そして「信濃に10万石を与えるから家康の家臣になれ」と誘いを受けますが、幸村はこれを拒絶しています。

真田丸も大坂城の堀も失われた以上、この先も戦いを続ければ、やがて死ぬことになるとわかっていたでしょうが、幸村は己の選んだ道を最後まで歩き続けました。

大坂夏の陣

翌年の「大坂夏の陣」では、大坂城の防御力がなくなっていたため、豊臣方は全軍を城の外に出して戦うことになります。

幸村は一軍を担い、この野戦軍の主力のひとりとして活動します。

豊臣方と徳川方の間には3倍の兵力差があり、圧倒的に不利な情勢でした。

このため、幸村は総大将である豊臣秀頼が自ら出陣して、軍の士気を高めることを要請しました。

しかし豊臣秀頼がこれに応じることはなく、ついに最後まで一度も戦場に出ないまま終戦を迎えることになります。

70才を超える家康が自ら軍を率いて戦っているのと比べると、その戦闘に向けた姿勢において、豊臣秀頼はあまりに劣っていました。

策が受け入れられず、幸村は落胆したと思われますが、それでも他の浪人衆の大将たちとともに、最後の作戦を立案します。

ここに至っては、敵軍の総大将である家康を討ち取る他に勝利する手段はなく、そのために家康本陣への強襲作戦を実行に移します。

そして、はじめの予定とは異なる形になりましたが、浪人衆の将・毛利勝永の奮戦によって徳川軍の前線が崩壊し、家康の本陣がむき出しになります。

この機を逃さず、幸村は軍を前に進め「裏切り者が出た!」と流言を振りまいて敵を混乱させつつ、家康の本陣に突撃をしかけます。

3度に渡って突撃を敢行し、本陣を切り崩し、家康自身を逃走させるほどに奮闘しますが、ついに家康をとらえきることはできませんでした。

やがて大軍を相手に力尽きた幸村は、松平忠直配下の武将に討ち取られ、戦いの中でその生涯を終えました。

幸村が敗れた後、大坂城は落城し、豊臣氏はあえなく滅亡しています。

真田丸と、最後の突撃に見られた幸村の姿勢

幸村は浪人衆の一員だったこともあり、豊臣氏の首脳部から完全には信用されていませんでした。

豊臣方からは、南条元忠の他にも多くの徳川方への内通者が出ていますので、首脳部は幸村もあるいは、と疑心暗鬼にかられていたようです。

真田丸を作った際にも、徳川方に寝返るための準備工作なのではないかと疑われていました。

そして幸村の名声が、大坂の陣以前は低かったこともあって、せっかくの献策もその多くが受け入れられませんでした。

そのような不利な立場にありながらも、幸村は常に取りうる最善手を取り続け、一度は徳川方に大打撃を与え、家康の首級を取るあと一歩まで迫ることができました。

このあたりに、幸村の武将としての優れた才腕と、精神力の強さが現れています。

もしも信頼してくれる主君に出会い、大きな戦いの作戦を任されることがあれば、そこで活躍をして、勝者の歴史に名を残すこともできたかもしれません。

しかしながら、大坂の陣という敗戦の中で、最後まであきらめることなく死力を尽くしたからこそ、その行動が人々の印象に強く残り、後世にまで名を知られる存在になったのでしょう。

ただ単に、勝者になれば死後も大きな名声が得られるわけではない、というところに、人の世のありようの玄妙さが潜んでいるのではないかと思います。