一躍大大名となる
この戦いの功績によって、長秀は秀吉から越前一国と、加賀(石川県南部)の二郡を与えられ、一躍123万石を支配する大大名の地位につきました。
これは中国地方を支配する毛利氏と同等の石高であり、秀吉からも厚く信任を得たことがうかがえます。
清州会議以降、一貫して秀吉に味方してその行動に織田氏の重臣として正当性を与え、賤ヶ岳の戦いでも、秀吉軍の危機を救ったことが高く評価されたのでしょう。
これによって、かつては格下であった秀吉に従うことにもなりましたが、長秀の器量からして、このあたりが出世の限界点であったと見るのが妥当だろうと思われます。
病で死去する
しかしこの1年後、1585年に長秀は病のために死去してしまいました。
享年は51で、死因は腹に巣食った寄生虫のためであったと言われています。
長秀は痛みに耐えかねて自ら腹を切り裂き、その二日後に死亡しています。
ようやくつかんだ栄光を楽しむ間はさほどなかったでしょうが、歴史の中で一定の役割を果たし、100万石以上の大身になれたことには、満足していたのではないかと思われます。
死後は領地を削られる
秀吉は長秀のことは高く評価していたものの、その後を継いだ嫡子の長重については同様ではなく、暫時その領地を削り取っていきます。
秀吉に反抗していた越中(富山県)の佐々成政を攻めた際に、長重の家臣が内応しているという疑いをかけ、その領地を若狭一国に削減しています。
さらに九州征伐の際に家臣が狼藉を働いたとして、加賀の小松の4万石にまで領地を減少させられています。
もともと丹羽氏は織田氏の序列において秀吉よりも上でしたので、それに大きな領地を与え続けるのは、秀吉にとって何かと不都合であったのかもしれません。
さすがに4万石にまで減らしたのはやりすぎであったと思ったのか、小田原征伐の後に12万石にまで加増されています。
そして従三位・参議という高い官位を与えられ、長重は「小松宰相」と称されるようになりました。
改易されるも、大名に復帰する
その後、長重は関ヶ原の戦いにおいて西軍に属し、南下してきた前田利長(利家の子)の軍勢と戦いました。
長重は「北陸無双の城」と称された小松城に籠城し、2万5千という大軍を擁する前田軍の攻撃を防いでいます。
さらに撤退する前田軍に追撃をかけて損害を与えるなどして活躍しますが、西軍が敗れたため、戦後に改易されて領地を失いました。
しかし1603年に徳川秀忠(家康の後継者)のとりなしを受け、1万石で大名に復帰しています。
これは長重の妻が、徳川秀忠の妻の従姉妹であり、さらに信長の重臣の子で、その娘婿でもあったという、血筋の良さによって配慮を受けたためです。
長重は大名に復帰した後、徳川幕府への忠誠に励み、大坂の陣で武功を上げたことから、後に陸奥(東北)の白河で10万石の領地を与えられるに至っています。
そしてその後継者である丹羽光重の時代に二本松に転封され、ここに江戸時代を通して定着しました。
明治時代も華族としての地位を保つ
それから約250年後、幕末に二本松藩は新政府軍と戦って敗れますが、降伏したことで半分の5万石の領地が残され、やがて廃藩置県の後、子爵として華族に列しました。
丹羽氏は決して華々しい地位を保ったことはありませんでしたが、こうして地味ながらも、長くしぶとく一定の勢力を保ち続けたようです。
米五郎左と呼ばれた長秀によって、そのような家風が形成された、ということなのかもしれません。
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