佐和山城主となる
信長は六角氏を討ち破って上洛に成功し、足利義昭を室町幕府の15代将軍の地位につけました。
そして大和(奈良県)に勢力を持つ松永久秀を服従させ、但馬(兵庫県)の山名氏を攻めて降伏させるなどして、畿内にも基盤を築いて行きました。
次いで越前(福井県)を支配する朝倉義景も支配下に置こうとするのですが、上洛を拒まれたため、北陸に出兵することになります。
しかし織田軍が越前に到着すると、同盟を結んでいた北近江の領主・浅井長政が裏切り、背後から攻撃してきました。
このために信長は京に撤退し、浅井・朝倉軍と敵対する状況になります。
北近江は美濃と京の交通を結ぶ地域でしたので、ここが敵に回ると領地が分断されてしまうため、浅井氏の裏切りは、信長にとって重大な懸念事項となりました。
信長は近江の各城に、柴田勝家や秀吉らの重臣たちを配置し、浅井・朝倉軍の動きを封じつつ、その勢力を削り取っていく作戦を実行しました。
この流れの中で、長秀は浅井長政の重臣・磯野員昌の居城であった佐和山城の城主に任命され、浅井軍との戦いに参加しています。
国持大名となる
信長は浅井・朝倉氏の他、石山本願寺や武田信玄などの勢力に包囲され、危機に陥っていきました。
しかし武田信玄が病死したことで包囲網の力が弱まり、1573年には浅井・朝倉氏を攻め滅ぼすことに成功します。
この勝利によって織田氏の領地が大幅に拡大し、信長は功績のあった者たちに大名の地位を与えていきました。
木下秀吉が近江の長浜城主に、明智光秀が坂本城主に任命され、数万石の領地を与えられましたが、長秀は若狭(福井県西部)一国を与えられ、信長の家臣たちの中で、一番はじめに国持大名となっています。
若狭の石高は8万5千石ほどで、それほど大きな国ではありませんでしたが、京に物資を運ぶための海運の拠点であり、流通に関しては、畿内における重要な地域であったと言えます。
長秀は若狭の軍事や治安維持、流通網を統括しており、信長から大きな権限を与えられました。
各地を転戦して武功を上げ、安土城の普請奉行となる
長秀は若狭衆を率いて各地を転戦し、長篠の戦いや越前の一向一揆の討伐などで武功を立てました。
一向一揆との戦いでは、柴田勝家とともに鳥羽城を攻め落とすなどして活躍しましたが、戦後になると越前一国75万石という大領が勝家に与えられており、長秀とは大きな差がついています。
信長は大軍を指揮する能力においては、長秀は他の武将たちに劣っているとみなしていたようで、この頃から創設されていく、各地の方面司令官には任命されませんでした。
そのかわりに行政面での仕事が多くなり、長秀は信長の居城である安土城の普請奉行になって、築城の実務を担当しました。
これ以外にも、各方面の援軍に赴き、物資の補給を行ったり、戦後処理を滞りなく進めるなど、優れた働きを見せています。
しかし上杉氏や毛利氏といった、大勢力の攻略を任された勝家や秀吉と比べると、地味な役目を与えられていたのは確かであり、外部の勢力からは、彼らよりも一段下の存在だと見られていたようです。
信長から引き続き厚遇を受け、四国攻略の副将に任命される
その後、信長の家臣筆頭であった佐久間信盛が追放され、これにかわって柴田勝家が筆頭の地位につきます。
この時に長秀は勝家に次ぐ二番家老の地位が与えられ、「織田家の双璧」と称されるようになりました。
信長が京で行った大規模な馬揃え(軍事パレード)においても、一番始めに入場する待遇を与えられており、領地や動員兵力こそ少ないものの、厚遇を受けていたことに変わりはありませんでした。
嫡男の長重は信長の五女を妻に娶っており、親子で織田氏一族と婚姻を結んでいたのは丹羽氏だけで、生涯に渡って信長から信頼を受け続けていたことがうかがえます。
【次のページに続く▼】