四国討伐の副将となる
そして1582年になると、信長に敵対した四国の覇者・長宗我部元親の討伐軍に参加することになります。
元親は信長と同盟を結んでいましたが、畿内の情勢が落ち着いたことで、信長は四国へも勢力を伸ばす意欲を持つようになり、その関係は破綻していました。
この時の総大将は信長の3男・織田信孝で、長秀は蜂屋頼隆や三好康長とともに、彼を補佐する副将に任じられました。
これにより、ようやく地方を征伐する軍において、主導的な立場を得たことになります。
本能寺の変が発生する
しかしこの年の6月に、信長が明智光秀の謀反によって本能寺で討たれてしまい、情勢が一変します。
長秀はこの時、信孝とともに摂津(大阪府)の岸和田で、蜂屋頼隆から接待を受けていました。
このため、住吉に滞陣していた四国討伐軍とは離れていたのですが、総大将も副将もいない部隊は信長の死に動揺し、混乱して逃げ散ってしまいます。
長秀らが住吉に戻った時にはわずかな兵しか残っておらず、このために光秀を討伐するどころではなく、守備に徹するしかありませんでした。
この時点では長秀らが光秀に最も近い場所に位置していたため、もしも大軍を擁していれば、光秀を討つという大功を立てる絶好の好機であったのですが、軍勢が逃げ散ってしまっていたため、これを活かすことはできませんでした。
長秀や信孝には、運がなかったと言えるでしょう。
もっとも長秀らの実力では、大軍を指揮するのに長けた光秀に勝利するのは、容易ではなかったとも考えられるのですが。
秀吉が中国大返しによって舞い戻る
こうした流れであったため、長秀らは光秀が大坂に侵攻してくると危機に陥る状況でしたが、中国地方で毛利氏と対戦していた秀吉が、猛烈な速度で畿内に舞い戻って来たため、窮地を脱することができました。
長秀と信孝は戻ってきた秀吉の軍勢に合流します。
そして信長の遺児であったため、名目上は信孝が総大将になりました。
その後も秀吉は中川清秀や高山右近ら、摂津の大名たちの部隊を吸収して勢力を増大させ、逆にほとんど味方を増やせなかった光秀を、「山崎の戦い」で撃破しています。
この鮮やかな行軍と戦勝によって、秀吉は一躍天下人の有力候補に名のりを上げました。
長秀はこうした秀吉のすさまじい働きに接し、それまでの席次を忘れ、秀吉に味方し、彼を押し上げていくことを密かに決意したようです。
長秀は自分が頭領になって人を引っ張っていくのは得意ではなく、優れた人物の下につき、その補佐をすることを得意としていましたので、信長から秀吉へと、担ぐ相手を変えることに、それほど大きな抵抗はなかったものと思われます。
清州会議に出席する
光秀の討伐に成功した後、織田氏の諸将は清洲城に集まり、信長の後継者を決める会議を開催しました。
この時に会議を主導したのは、筆頭家老の柴田勝家、二番家老の丹羽長秀、光秀を討った羽柴秀吉、そして信長の乳兄弟の池田恒興の4名でした。
この会議では、まず信長の次男の信雄と、三男の信孝がそれぞれに後継者の地位を主張して引かなかったため、話がもつれていきます。
これは、本能寺の変で、嫡男の信忠が戦死していたことが影響していました。
信長は自分の後を信忠に継がせると決定して公表しており、まさか信忠も一緒に死んでしまうとは想定していなかったため、こうした事態に対しては、何も手を打っていなかったのです。
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