秀吉が三法師を推戴することを提案する
こうして話し合いが平行線をたどる中、秀吉が信忠の遺児である三法師を後継者にすることを提案します。
三法師はまだ幼児であったために勝家は難色を示しますが、秀吉が席を外した間に長秀と恒興が勝家を説得し、三法師が後継者に決まった、と言われています。
勝家は筆頭家老の立場でしたが、秀吉は光秀の討伐に成功したという大きな実績がありましたので、その意向をはねつけるのは難しい情勢でした。
こうして三法師が信長の後継者となり、それを信雄と信孝が後見し、秀吉、勝家、長秀、恒興の4名が補佐する、ということで話がまとまります。
しかし当主が幼児でしたので、このまますんなりと、事態が収まるはずもありませんでした。
領地の加増を受ける
この後で信長の遺領の分割についての話し合いも行われ、長秀は近江2郡の加増を受けています。
秀吉は光秀の旧領の丹波、および河内と山城国といった京周辺の地域を新たに領地に加え、勝家を上回る実力を備えました。
三法師が後継者になることについて、秀吉の意見が通ったこともあり、この会議で秀吉が織田家臣団の筆頭の地位につき、勝家は二番手に後退しました。
勝家はこのことを面白く思っておらず、会議の直後から、両者の間の派閥争いが発生することになります。
秀吉派に入る
秀吉は会議が終わると、すぐに三法師の傅役(もりやく。教育係のこと)となった堀秀政を自分の味方につけています。
そして長秀にも味方につくようにと誘いをかけてきました。
長秀はすでに清州会議において秀吉の提案を支持する姿勢を見せていましたので、この誘いにのって秀吉陣営に与します。
これに池田恒興も加わり、4人の重臣のうち、3人がひとつの陣営にまとまることになりました。
勝家はこれに対抗するため、美濃を継承した信孝と手を結び、関東の方面司令官だった滝川一益を味方につけ、反秀吉陣営を構築しています。
会議の決定が破棄される
秀吉はこの年の11月に、信長の四男で、自身の養子である羽柴秀勝を喪主にして、京の大徳寺で信長の葬儀を執り行いました。
そして秀吉は信長の位牌を持った姿を人々に見せることで、自分こそが信長の後継者になることを、暗に宣言します。
清州会議では三法師が信長の後継者に決まりましたが、後見人となった信孝が自分の手元から離そうとしなかったため、秀吉は信孝と勝家が謀反を起こした、として会議の決定事項を破棄しました。
そして尾張一国の主となっていた次男の信雄を担ぎ、新たに織田家の後継者であると定め、これを長秀と恒興との合議で決定します。
こうして三法師と信孝を擁する勝家・滝川一益陣営との対立が深まっていきました。
長秀は織田氏の重臣として、秀吉の行いに正当性を与えつつ、彼を勝たせることによって、自分の運命を開いていく道を選んだことになります。
秀吉と勝家の戦いが始まる
秀吉は冬になり、北陸を拠点とする勝家が雪に阻まれて出兵できない隙をつく形で、行動を開始します。
清州会議で勝家に譲っていた北近江の長浜城を奪還すると、美濃にも出兵し、信孝を降伏させて勝家側の勢力を削り取っていきます。
そして伊勢の滝川一益との戦いになりますが、こちらは戦上手の一益の激しい抵抗を受け、容易に占拠することはできませんでした。
こうして自派の勢力が危機に陥っているのを見かねて、勝家は雪をかきわけて畿内への進出を図り、いよいよ秀吉との直接対決の日が迫ることになります。
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