激しい変転
昌幸は一旦は上杉家に臣従することを約束しますが、そのわずか二週間後には、そちらの方が有利とみたのか、北信濃に進軍してきた北条家に寝返っています。
北信濃の川中島で上杉軍と北条軍は対峙しますが、ここでは決戦は行われず、北条軍は甲斐に侵攻してきた徳川軍と対決するべく撤退します。
上杉軍もまた、国内に反抗勢力を抱えていたため、そちらを討伐するために撤退します。
こうして北信濃から大勢力の軍勢が去ったところで、昌幸は今度は北条家を裏切り、徳川家に属することになります。
昌幸からすれば、上杉家や北条家に属したのは、彼らに自分の所領を奪われぬように擬態していただけなのでしょう。
昌幸が徳川家に寝返ったという情報は北条に伝わり、沼田城が攻撃を受けますが、真田軍はこれを撃退します。
これをきっかけに北条家は無理押しすることをやめ、徳川家と和睦する道を選び、交渉が行われます。
その際に徳川家康は沼田城を北条家に割譲することを約束しますが、これが徳川家と真田家の関係がこじれる原因になってしまいます。
沼田城は昌幸が自力で獲得して所有している城であり、それを割譲するのであれば代わりの土地を渡すことを約束せよ、と昌幸は要求しますが、家康はこれにはっきりとした返事を与えませんでした。
この時の家康の誤った措置が、後の上田合戦につながっていきます。
家康にしては珍しい判断ミスだった、と言えるでしょう。
徳川家康との対立
その後、上杉も北条も徳川も、それぞれに別の方面の敵と戦っており、その隙をついて昌幸は勢力の拡大をはかります。
新たに信濃の北東部に上田城を築き、ここを居城とします。
上野にも近い場所で、両方の国に所領を持つ昌幸にとっては、ここを本拠地とする方が都合がよかったのでしょう。
この頃には新たに城を築けるほどの経済力が、真田家に備わっていたことも示しています。
そして沼田・吾妻・小県の抵抗者を攻め滅ぼすなどして、これらの地域の支配権を確立します。
この頃には独立した戦力で、大勢力とも渡り合えるようになりつつあった、ということでもあります。
家康はこの時期に「小牧・長久手の戦い」で、豊臣軍と対決していました。
やがて豊臣秀吉と和睦し、この争いが終結したころには、北条家から改めて沼田城を割譲する約束を履行することを迫られます。
1585年、家康は昌幸に対して沼田城の引き渡しを再度命じますが、昌幸は代わりの領地が与えられない限りは引き渡さない、としてこれを断固拒否します。
そもそも武家が大きな勢力に臣従するのは所領の安全を保証してもらうためであり、それを果たせないのであれば臣従する意味がありません。
この時の家康の態度は、明らかにその原則から逸脱したものでした。
真田家は北条家に比べればごく小さな勢力でしかなく、北条家との関係を保つためであれば、真田家の面目など潰しても構わないと、この時の家康は少々傲慢になっていたのかもしれません。
昌幸はついに徳川家から離反することを決意し、再び上杉家に臣従することを選択します。
戦力が向上しているとは言え、強大な徳川と対決する以上は、その後ろ盾が必要となるからです。
また、徳川と同時に上杉にも敵にまわられると、追いつめられて打つ手がなくなってしまう、という事情もあったでしょう。
昌幸の本音は真田家の独立と勢力の拡大にあり、どの勢力にも本気で臣従するつもりはなかったと思われます。
この後の行動からみても、上杉家に属したのはあくまで自分のために利用するつもりでしかなかったようです。
この時に次男の信繁(後に幸村の名で知られる人物)を上杉家に人質として送っています。
一度臣従すると言っておきながら裏切った過去がありますので、そのような保証が必要となったのでしょう。
このようにして、昌幸は徳川家との対決の準備を進めていきました。
昌幸の目指す真田家の独立がかなうかどうかは、ここからの勝負にかかっています。
昌幸は大勢力に従うことを潔しとせず、リスクを取ることを恐れない人柄の持ち主で、現代に生きていたら自分で事業を起こして社長にでもなっていたかもしれません。
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