真田昌幸はどうして表裏比興の者と呼ばれたのか?

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武田家の滅亡

昌幸は活躍したものの、武田家全体の衰退を押しとどめることはできませんでした。

勝頼は外交方針を誤り、織田・徳川・北条に三方向から締めあげられる情勢になってしまいます。

北条家と手を切ってまでして同盟を結んだ上杉家は、謙信死後の家督相続争いによって発生した内乱の痛手から容易に立ち直れず、武田家を支援する余裕がありませんでした。

そのような状況下で勝頼は新しい城の建築を始め、領主たちに重い負担を課したことで、甲斐・信濃における武田家の求心力は大きく低下します。

ついには武田家に属していた信濃の豪族・木曽義昌が織田家に寝返ったことをきっかけに、1582年、織田信長は武田家を滅ぼすべく大軍を差し向けます。

武田方はいくつかの城を除いてまともに抵抗せず、勝頼はあっという間に追いつめられてしまいます。

この時に昌幸は自身の居城である岩櫃(いわびつ)城に逃れるようにと進言しますが、勝頼は親類の小山田信茂の居城に入ることを選び、そちらに向けて移動します。

しかし小山田信茂に裏切られて入城を断られ、行くあてを失ってしまいました。

勝頼はしかたなく武田家ゆかりの天目山に逃れますが、そこで追手に包囲され、自害して果てています。

こうして武田家は滅亡し、真田家は主を失った状態になりました。

ここから昌幸の、真田家を存続させるための長い戦いが始まります。

織田家への服属と、本能寺の変

武田家の滅亡後、昌幸は織田家に降伏し、信濃の本領を安堵されています。

そして織田軍の関東方面の司令官となった滝川一益の与力(直属の家臣ではないものの、指揮を受ける立場)になりました。

これは1582年3月ごろの事でしたが、その6月にはまたしても大きな異変が発生します。

織田信長が京都で家臣の明智光秀に討たれ、その余波が甲斐や信濃にまで及びます。

武田領の支配を始めたばかりの織田家の代官は殺害され、その他の織田家の家臣団も美濃(岐阜県)方面へと撤退します。

滝川一益はこうした状況を昌幸を含む与力の武将たちに説明した上で、兵を集めて上野に侵攻してきた北条軍と対決しました。

しかしこの戦いに敗れ、一益もまた所領のある伊勢方面へと撤退することになります。

昌幸はこの時、一益を信濃の諏訪まで送り届けたと言われています。

勝頼に対する申し出といい、主や上役となった人物には丁重に接していた様子がうかがわれます。

特に信玄に対しては深い忠誠心を持っていたようで、信玄の墓所を自領に再興しようとしていた、と言われています。

しかし、この後に真田家の独立を志向しはじめた昌幸には、そのような殊勝な姿勢を見出すことはできなくなりますが。

主家である武田家が滅亡し、天下を制しつつあった織田家も去ったことで、昌幸は自身の優れた才覚を用い、独立した大名となることを目指し始めます。

この時、昌幸は35才になっていました。

一個の武将として、油ののっていた時期だと言えるでしょう。

勢力の拡大

武田家が滅び、織田家が撤退するという情勢の変化の結果、甲斐と信濃は一時的に空白地となり、周囲の大勢力である上杉・北条・徳川の間で激しい争奪戦が行われることになります。

北から上杉が、東から北条が、南から徳川がやってくる、という形勢です。

昌幸もまたこの好機を逃さず、信濃の旧武田家臣団の取り込みを行い、小県郡や佐久郡といった地域に勢力を伸ばすことに成功します。

この時、新たに砥石城を得てそちらに本拠地を移転しています。

また、滝川一益の撤退によって空白地となった上野にも手を伸ばし、織田家に取り上げられていた沼田城を取り戻しました。

元の居城であった岩櫃城には、この頃からその片腕として働き始めていた長男の信幸を配置し、領地の支配を固めていきます。

その頃には上杉家も動き始めており、信濃の北部を占拠します。

上杉家は真田家よりもはるかに強大で、まだ新しい領地の支配が固まっていない真田家の力では、これと正面から戦うのは困難でした。

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