武田信玄(晴信) 戦国最強の軍団を作り上げた「甲斐の虎」の生涯について

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徳川家康との同盟と、北条氏康との敵対

信玄は今川領に侵攻するにあたり、三河を制した徳川家康との同盟を締結します。

これは武田軍が駿河を、徳川軍が遠江を占拠し、今川領を分割しようという提案でした。

家康はこれを勢力拡大の好機と捉え、同盟を受け入れています。

信玄は同時に北条氏康にも協力を求めますが、氏康は今川氏との同盟を堅持する方針を掲げ、これを断っています。

氏康はこの時、「信玄の外交は信用できない」という言葉を残してます。

武田氏と今川氏の同盟関係は20年も続いていましたので、これを裏切ったことで、信玄への信頼が大きく揺らいだのだと思われます。

信玄は国を強くし、領国を広げていくことこそが正義と考えていたようで、意に介した様子はありませんでした。

ちなみに氏康は「上杉謙信は信玄と違って信用できる」といった言葉も残しています。

謙信は一度交わした約束は何があろうとも守る、という義理堅さで知られており、外交の信頼度に関しては、謙信の方がはるかに信玄よりも勝っていました。

駿河侵攻

信玄は1568年の12月になると、駿河への侵攻を開始します。

武田軍が駿河に入るや、すぐに今川氏の一族である瀬名氏や葛山氏などが寝返りました。

氏真はこの頃に数人の寵臣のみを重用し、他の一族を軽んじていたことから、すっかりと見限られていたようです。

信玄は三ツ者の諜報活動によってそれを知り、事前に調略をしかけて寝返らせていたのでしょう。

こうして信玄は容易に駿河に侵入すると、すぐにその本拠である今川館を占拠しました。

北条氏康の反撃

しかし北条氏康が氏真の要請を受けて駿河に出兵し、信玄との同盟を破棄します。

そして上杉謙信と同盟を結び、東と北から信玄の領地を圧迫しようとしました。

信玄は事前に謙信への対策として、謙信に従属していた越中(富山県)守護・椎名康胤(やすたね)に反乱を起こさせています。

さらに越後の北東部に領地を持つ謙信の家臣・本庄繁長にも謀反を起こさせ、謙信を越中と越後に釘付けにし、駿河侵攻を妨害されないようにしています。

このあたりの信玄の謀略は冴え渡っており、謙信を翻弄し、直接戦わずにすむようにしました。

謙信は次々としかけられる信玄の策略に怒り、神社に信玄の悪事を書いた書状を奉納し、神罰が降るようにと願う、という行動に出ています。

謙信との関係は元々悪いのですが、こうして氏康とも敵対することになり、信玄はその野心のために敵を増やすことになりました。

家康とも敵対する

信玄が駿河を占拠すると、今川氏真は遠江の掛川城に逃れました。

そして遠江に侵攻してきた徳川家康の軍勢に包囲されますが、守将の朝比奈泰朝が奮闘して城を守り抜き、このために戦いが長引いていきます。

この情勢を見た信玄は遠江にも軍を侵入させますが、これは家康との約束に反する行為でした。

これを受けて家康は信玄との同盟を破棄し、今川氏と北条氏との同盟を模索するようになります。

そして駿河を奪還した際には、氏真にこれを返還するという条件の元に、徳川・今川・北条の3勢力による、反武田同盟が結成されます。

この同盟によって掛川城は家康に明け渡され、遠江は徳川氏の領地になりました。

こうして徳川軍と北条軍に駿河を東西から挟み撃ちにされる情勢となり、信玄の駿河侵攻は、しばし停滞することになります。

乱暴さが目立つ

こうして家康をも敵に回してしまいましたが、この頃の信玄の行動には、乱暴さが目立っています。

嫡男の義信を粛清したことで心が荒れ、いつもの冷静さを失っていたのかもしれません。

信玄は武田氏の当主として、常に冷徹な判断をもって行動していましたが、まったく情を備えていないわけではなく、子どもたちの健康を願う文章を神社に奉納したりもしています。

しかし武田氏の勢力を拡大し続ける、という野心と方針に変わりはなく、その狭間で精神に負担を感じていたのかもしれません。

冷徹さを貫きながらも、時に感情的なところを見せる場合もある、というのが信玄の基本的な性格だったようです。

このあたりは家康と似ており、そのために家康は後に信玄を尊敬し、その事績を参考にする気になったのかもしれません。

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