武田信玄(晴信) 戦国最強の軍団を作り上げた「甲斐の虎」の生涯について

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家中を掌握する

信玄は信虎の追放に功績のあった板垣信方と甘利虎泰を筆頭家臣に据え、飯富虎昌にも地位を与えて家臣団を掌握します。

強引な手段で家督を継承しましたが、この時に内乱は起きておらず、信虎の追放に抵抗を感じる家臣は少なかったようです。

信虎は何人もの家臣を自らの手で殺害していましたので、いつ自分も同じ目にあうかわかったものではなく、当主であってほしくないと望む家臣が多くなっていたのでしょう。

信玄はそのあたりを見越していたようで、血を流さずにクーデターを成功させました。

このあたりに信玄の、家中統制に優れていた面をうかがい知ることができます。

諏訪を占拠する

父を追放した翌年には、早くも軍事行動を起こしています。

信玄は1542年に、それまで同盟を結んでいた諏訪頼重との関係を破棄します。

そして頼重の領地である信濃の諏訪郡に侵攻しました。

頼重は信玄に無断で関東管領の上杉憲政と同盟を結び、領地を割譲するなどしていました。

これが武田氏との手切れの準備ではないかと疑うきっかけとなり、信玄は頼重の討伐と諏訪郡の占拠を決意しました。

信玄は数千の軍を動かしてすぐに諏訪郡を攻め落とすと、頼重を甲斐に連行します。

そして自害させて諏訪郡を掌握しました。

この後で頼重の娘を側室として迎え、後に四男の勝頼を生ませています。

これは諏訪氏の血を継ぐものを武田氏の一族に加えることで、諏訪郡の統治の安定を図る意図がありました。

諏訪氏は諏訪大社を管理する神官の一族で、大社への信仰心を持つ周辺地域に影響力を持っており、このためにその血の取り込みには政治的に大きな価値があったのです。

自害させた相手の娘に、政治的な理由で子を生ませるあたりに、信玄の冷徹な、マキャベリスト的な性格が浮かび上がってきます。

この諏訪郡の攻略を契機として、信玄は信濃各地への侵攻を開始しました。

連戦連勝を飾る

この頃の信濃は、各地が中小規模の領主たちに分割されて統治される状況になっており、信玄はそれらの勢力を各個に撃破していきます。

信濃守護は小笠原氏が代々務めていたのですが、この頃には信濃の一部を支配するだけの弱小勢力に成り下がっていました。

信玄からすれば、信濃はまとまった大勢力がおらず、侵攻しやすい地域だったことになります。

まず1543年に信濃東部の小県郡(ちいさがたぐん)に侵攻し、長窪城主・大井貞隆を攻め滅ぼします。

さらに1545年には上伊那郡の高遠城を攻め落とし、信濃の中〜東部にかけて勢力を拡大していきました。

小田井原の戦いで上杉憲政を破る

こうして信玄の信濃攻略は順調に進み、1547年には佐久郡の志賀城に攻め込みます。

佐久郡は信濃の東部にある地域で、上野(群馬県)と国境を接する地域でもありました。

志賀城主・笠原清繁は信玄に単独では抗し難いと判断し、上野に領地を持つ関東管領・上杉憲政に支援を求めます。

憲政はこれに応じ、大軍を動員して志賀城の救援に向かわせました。

この時に城を包囲していた信玄は、板垣信方と甘利虎泰に別働隊を預けて迎撃に向かわせます。

やがて小田井原の地で戦いとなり、信方と虎泰の両名は一方的に上杉軍を蹂躙し、3000名の敵兵を討ち取るという大勝利をあげています。

このように、武田軍は信玄だけでなく、各武将がそれぞれに指揮能力に優れているのが最大の強みでした。

志賀城を攻め落とし、敵兵を奴隷として売り払う

信玄はこの時に獲得した敵兵の首を志賀城の周囲に並べさせ、城内の兵を心理的に圧迫し、士気を大いに低下させました。

その上で城に総攻撃を行い、翌日までには攻め落としています。

城主の笠原清繁は討ち死にし、笠原氏は滅亡しました。

信玄は捕虜となった敵兵や、その家族たちを奴隷として売り払うという過酷な措置を取っており、関係者たちから深く恨みを買うことになります。

このように、武田軍は次々と軍事的な成功を治めていきますが、勝利を重ねるにつれ、信玄も家臣たちも、だんだんと傲慢かつ乱暴になっていったようです。

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