武田信玄(晴信) 戦国最強の軍団を作り上げた「甲斐の虎」の生涯について

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真田幸綱の活躍

こうして信玄は砥石城の攻略に失敗しますが、しかし翌年には新参家臣の真田幸綱が、あっさりとこの城を奪取してしまいました。

幸綱は元々、砥石城周辺の領主だったのですが、信濃での勢力争いに敗れて上野(群馬県)に逃亡していた過去がありました。

その後、復権をもくろんで信玄に仕え、信濃中部での調略などの活動を行っています。

砥石城にはこの幸綱の弟・矢沢頼綱が守備隊に加わっており、彼を内通させて城内で反乱を起こさせ、それに乗じて城を占拠したのでした。

幸綱は信玄が苦戦した攻城戦を、さしたる損害もなく成功させ、武田家臣団の中で頭角を表していくことになります。

この幸綱の子が高名な昌幸で、孫が信幸と信繁(幸村)です。

北信濃への進出と、長尾景虎との対立

幸綱の活躍によって砥石城が落城すると、信玄は周辺の地域も抜かりなく支配下に置いていきました。

これによって村上義清は信玄に対抗できるだけの実力を失い、居城の葛尾城を放棄して越後に逃亡しました。

そして領主の長尾景虎を頼り、北信濃への介入を要請します。

この長尾景虎が、後の上杉謙信です。

(この頃にはまだ謙信を名のっていませんが、煩雑になるため以後は謙信で名称を統一します。)

謙信は北信濃の領主・高梨氏と縁戚関係にあり、これを救援する目的もあって、義清の要請に応じる構えを見せます。

こうしてついに、信玄と謙信の、後に宿敵として知られることになる両武将が、初めての対戦を行うことになりました。

第一次川中島の戦い

信玄と謙信の戦いは、北信濃の川中島の周辺で行われました。

1553年の9月に、謙信は兵を率いて北信濃に出陣します。

そして武田軍の先鋒を撃破すると、さらに進軍して荒砥城(あらとじょう)を攻め落としました。

信玄はその近くにある塩田城にまで進軍しましたが、そこに篭って守備に徹し、謙信との正面対決は行いませんでした。

そうして謙信の軍を城に引きつける一方で、別働隊を背後に回らせて退路を脅かします。

これが謙信を牽制する効果を発揮し、軍を後退させることに成功しています。

謙信は信玄との決戦を希望していたようですが、信玄は慎重な構えを堅持し、これに応じませんでした。

このため、謙信は間もなく軍を越後まで引いており、この戦いは引き分けに終わっています。

一部の城を取られたものの、信玄は村上義清の領地であった埴科郡(はにしなぐん)の掌握に成功しており、北信濃での勢力を拡大しています。

謙信もまた、北信濃の豪族たちがすべて信玄になびいてしまうのを防いでおり、一定の戦果を上げました。

この時に信玄が決戦に応じなかったのは、謙信の並外れた野戦での指揮能力を警戒してのことだったと思われます。

信玄は各地の武将たちの詳細な情報を集めており、謙信の能力を高く評価し、安易に戦うのは危険な敵だと認識していたようです。

信玄の諜報活動

信玄は諜報活動に力を入れており、「三ツ者(みつもの)」と呼ばれる情報収集のための組織を作っていました。

構成員たちは僧侶や商人などに扮装して各地で情報を集め、信玄に送り届ける役目を担っています。

また、身寄りのない少女たちを集め、歩き巫女として活動させてもいたようです。

三ツ者たちの活動によって、信玄は他国の情勢や武将たちの能力、日常の活動や趣味に至るまで、細部に渡る詳細な情報を手に入れ、戦略を立てる上で活用していました。

このため、信玄は謙信の図抜けた軍事能力についても熟知していたのだと思われます。

後には謙信の足元を崩すため、その家臣たちを寝返らせるなどして盛んに調略を行っていきますが、それが可能になったのも、三ツ者たちの情報収集によるところが大きかったでしょう。

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