武田信玄(晴信) 戦国最強の軍団を作り上げた「甲斐の虎」の生涯について

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諏訪郡への侵攻を受ける

信玄が大敗を喫したことで、信濃の諸勢力が武田氏への反撃を試みるようになります。

反武田勢力は、信濃守護・小笠原長時が中心になり、村上義清や仁科盛能と連合して諏訪に攻め込んできました。

連合軍は上諏訪を占領すると、西諏訪の豪族たちを寝返らせます。

統治を担当していた板垣信方の戦死によって諏訪郡は動揺しており、武田氏の支配力が低下していたのが、この寝返りの原因です。

これに対し、信玄は甲府から出陣したものの、意図的に進軍を遅らせて時間を稼ぎました。

その間に連合軍は寄せ集めの弊害が発生し、内輪もめを起こして仁科盛能が離脱し、撤退しています。

その頃に信玄は諏訪郡の拠点である上原城に入り、そこから少しずつ小笠原軍に向かって進軍しました。

先の敗戦のために信玄が消極的になっているのだろうと思った小笠原長時は、すっかりと油断し、警戒を怠るようになりました。

しかしこれが信玄の作戦でした。

塩尻峠の戦いで圧勝する

信玄は夜中のうちに行軍の速度を上げ、密かに小笠原軍が滞陣する塩尻峠にまで軍を進めます。

そして夜明け頃に接近すると、奇襲をしかけました。

この時に長時はまったく警戒しておらず、まともに指揮を取ることができませんでした。

武田軍は眠り込んでいて、武装をろくに整えていない小笠原軍を散々に打ち負かし、1000人ほどの敵兵を討ち取って大勝利を収めます。

長時は命からがら逃走し、以後は二度と諏訪郡に足を踏み入れることはありませんでした。

信玄は戦勝の余勢をかってそのまま佐久郡にも侵攻し、13の城を落として勢力を拡大しています。

こうして先の上田原での敗戦の痛手を取り戻し、信玄は再び信濃制覇に向けて動き出します。

腹心の死と敗戦を乗り越え、信玄はさらに強くなった、と見ることができるでしょう。

小笠原領を占拠する

1550年に、信玄は小笠原長時の支配領域に侵攻します。

長時にはもはや信玄に対抗できる力はなく、居城である林城を放棄し、村上義清を頼って北信濃に逃亡しました。

こうして信玄は信濃守護家を討ち破り、信濃の中部を支配下に収めています。

信濃に残る主な敵は、先に初めての敗北を喫することになった、村上義清のみとなりました。

砥石崩れ

信玄は小笠原氏を滅ぼした勢いのままに、その年のうちに村上義清の支城である砥石城を攻撃します。

砥石城はその名の通り、四角い石のように切り立った崖の上に立つ堅城でした。

信玄の兵力は7千で、守備兵は500ほどでしかありませんでしたが、その構造のために容易に攻め落とせません。

しかも城兵のうちの半分は、かつて信玄に攻め落とされた志賀城の残党たちで、親族を殺されたり、奴隷として売られた恨みを抱いており、士気が高まっていました。

武田軍は足軽大将・横田高松が先鋒を務め、切り立った崖をよじ登って攻撃しようとしますが、城内から石や煮え湯が浴びせられ、撃退されてしまいます。

攻略に手こずっているうちに、義清は敵対していた高梨氏と和睦し、砥石城の救援のために2000の兵を率いて戦場に姿を表します。

そして城内の兵とともに武田軍を挟み撃ちにするべく、激しい攻撃をしかけてきました。

武田軍はこの攻勢を支えきれずに崩れ立ち、信玄はやむなく撤退を図ります。

挟み撃ちであったとは言え、戦力は武田軍の3分の1程度でしかありませんでしたので、義清の武勇が非常に優れたものであったことがうかがえます。

義清が逃げる信玄に対して激しい追撃をかけて来たため、武田軍は1000人もの死傷者を出すほどの損害を出しました。

信玄は影武者に敵を引きつけさせ、その間に撤退したとも言われており、かなりの危機に陥っていたようです。

こうして信玄はまたしても義清に打ち負かされ、2度目の手痛い敗戦を経験しました。

この戦いは「砥石崩れ」と呼ばれています。

信濃制圧戦において、義清は難敵として信玄の前に立ちふさがりました。

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