武田信玄(晴信) 戦国最強の軍団を作り上げた「甲斐の虎」の生涯について

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東海道の動揺

4度目の川中島の戦いの前年、東海道を支配する今川義元は、尾張(愛知県)を征服すべく、大軍を率いて侵攻しました。

しかし「桶狭間の戦い」で織田信長に討たれてしまい、今川氏の領国は激しく動揺します。

信玄は当初、義元の後を継いだ今川氏真との同盟を維持しましたが、三河(愛知県東部)で徳川家康が独立し、遠江(静岡県西部)では反乱が頻発する情勢となります。

氏真はこれを鎮圧することができず、今川氏の勢力は急速に衰えていきました。

この情勢の変化を見て、信玄は今川氏との関係の見直しを考えるようになっていきます。

このことが後に、武田氏の家中で重大な事件が引き起こされる原因となります。

織田信長との同盟

一方で、義元を退けて尾張の支配権を確立した織田信長は、勢力を拡大するために美濃(岐阜県)に侵攻するようになっていました。

美濃は東側で信濃と接しているため、信長は信玄の領地にも隣接することになります。

信長は信玄の実力を恐れており、美濃侵攻に介入されぬよう、同盟を結ぶことを申し入れてきました。

信玄はこの頃には西進する意向は持っておらず、信長との同盟を承諾します。

かつて「その器量はわからない」と述べた相手でしたが、この頃には義元を討ったことで、ただものではなかったことが証明されており、同盟を結ぶに値する相手だと判断したのでしょう。

信長はさらなる関係強化を望み、家臣の娘を養女とし、信玄の四男・諏訪勝頼との婚姻を提案してきました。

信玄はこれを受け入れ、武田氏と織田氏は義理とは言え、縁戚関係になっています。

信玄が信長との同盟を受け入れたのは、南進して今川氏の領地を手中に収めることを目指していたためです。

このため、今は信長と戦う必要はないと判断したのでしょう。

しかし信玄が南を目指す間に、信長は飛躍的に勢力を拡大させていくことになります。

駿河侵攻計画

今川氏真は先に述べた通り、父の急死によって発生した領国の混乱を鎮めることができず、今川氏の勢力は弱体化していきました。

この流れを見て、信玄は駿河への侵攻を計画するようになっていきました。

信玄の領地はすべて内陸部にあったために交易が行いにくく、商業力が他国に比べて劣っています。

この弱点を補うため、同盟を破棄してでも駿河を手に入れたいと考えたようです。

しかし嫡男の義信が、信玄のこの方針に反対します。

義信は氏真の妹と結婚していたこともあって、今川氏へ親しみを持っており、同盟を維持するようにと主張しました。

ですが、信玄は息子に反対されても駿河への侵攻をやめるつもりはなく、やがて2人の関係は悪化していきます。

義信と飯富虎昌の粛清

1565年になると、ついに親子の関係は破綻し、信玄は義信の傅役である飯富虎昌を処刑しています。

これは飯富虎昌の弟の昌景が、兄が義信をかついで謀反を企んでいる、と信玄に密告したのが原因です。

義信と飯富虎昌は、かつて信玄がそうしたように、親を他国に追放し、家督を奪うことを企んだのかもしれません。

義信は東光寺に幽閉され、2年後に自害しました。

その他にも、義信に同調したと見られる武将が粛清されています。

こうして駿河への侵略に反対する者は一掃され、信玄は自分の思うとおりに行動できるようになりました。

しかしこの時に義信を粛清したことが、後に武田氏の運命に大きく響いていくことになります。

親を追放し、子を粛清したことについて、信玄がどう思っていたのかは定かではありませんが、自分の意志を貫きたいと、強く考える人物であったのは確かだと思われます。

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