武田信玄(晴信) 戦国最強の軍団を作り上げた「甲斐の虎」の生涯について

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信長の噂

信玄はある日、「尾張の大うつけ(愚か者)」と呼ばれた織田信長の情報も得ています。

若い頃の信長は髪型や服装がだらしなく、町や村の中をうろついては歩きながら果物を食べるなどしており、大変に行儀の悪い若者でした。

そういった情報が届けられ、家臣たちは信長を嘲りましたが、信玄だけは「賢者なのか愚者なのか、その器量はまだわからない」と言って判断を保留しています。

信長はだらしない姿を人に見せる一方で、鉄砲や武術の訓練にも熱心に励んでいたからです。

信長が賢か愚か、その答えは10年ほどが過ぎてから、はっきりすることになります。

三国同盟

信玄は北に謙信という強敵を抱える情勢となり、南に隣接する今川氏との関係の強化に力を注ぎます。

1554年には嫡男の義信と、今川義元の娘・嶺松院(れいしょういん)との婚儀を成立させ、同盟関係を強化しました。

また、娘の黄梅院を北条氏政に嫁がせ、関東を支配する北条氏康(氏政の父)とも友好関係になります。

さらに今川氏と北条氏との間でも婚姻が結ばれ、武田・今川・北条の3大勢力が協力し合う体制が構築されました。

信玄にとっては、特に北条氏康との同盟が有効に機能することになります。

氏康もまた、上野をめぐって謙信と争っていたからです。

このため、信玄が北信濃に、氏康が上野にそれぞれ兵を出すことで、謙信の動きを撹乱し、その武威を鈍らせることができるようになりました。

こうして信玄は後背を固めるとともに協力者を得て、北信濃の攻略を進めていくことになります。

このあたりの動きから、信玄が外交上手だったこともわかります。

川中島での対峙と、北信濃攻略の進展

その後も信玄は2度ほど川中島周辺で謙信と対峙しますが、この時にも大規模な決戦は行われず、いずれも引き分けに終わっています。

謙信は関東管領の上杉憲政から要請を受け、関東の情勢にも介入し、氏康とも戦っていました。

このため、北信濃の戦いに集中できず、信玄はその隙をつき、じわじわと勢力圏を拡大していきます。

1557年には、将軍・足利義輝が信玄と謙信の和睦を促してきましたが、この時に信玄は信濃守護に自分を任じるようにと要求し、これが通って守護の地位を手に入れています。

信濃の最北部はまだ謙信の影響下にありましたが、こうして信玄は、名実ともに信濃の支配者の地位につき、甲斐・信濃の2カ国を支配する太守の地位を築いています。

これによって武田氏の領地は甲斐一国20万石から、信濃と上野の一部を合わせ、おおよそ70万石にまで拡大しました。

動員兵力は5千から2万にまで増大しています。

これは信濃への侵攻を開始してから、足かけ15年目の出来事で、信玄は36才になっていました。

謙信の存在がなければ、もう少し早く成し遂げていたかもしれません。

出家して「信玄」を名のる

1559年になると、出家して「徳栄軒信玄」と名のります。

信玄が出家した理由ははっきりとしていませんが、寺社勢力との関係の強化のためだとも、信濃守に就任し、領地の拡大事業が一段落したことが契機になった、とも言われています。

信濃を支配下に置くことを信玄は念願としていましたので、それを達成したことで、ひとまずはやり遂げた、という気持ちになり、人生の節目にしたかったのかもしれません。

出家したと言っても、権力を嫡男・義信に譲ったわけではなく、この後も旺盛に各地への侵攻を続けていくことになります。

この頃から信玄の目的は甲信のみならず、その周辺の地域を含んだ一大強国の形成へと移り変わっていきます。

ともあれ、こうして後世に知られる「武田信玄」の名が誕生しています。

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