武田信玄(晴信) 戦国最強の軍団を作り上げた「甲斐の虎」の生涯について

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信玄の人材登用

信玄の家臣には優れた武将たちが多かった、というのはよく語られることなのですが、それには素質のありそうな若者を見出し、引き立てていく制度を設けていたことが影響しています。

信玄の家臣の中では馬場信春、内藤昌豊、山県昌景、高坂昌信といった人物たちが特に名を知られています。

彼らは元は別の一族の出身だったのですが、信玄が断絶していた名家の家督を継がせて身分を引き上げました。

高坂昌信に至っては、元は農民だったと言われています。

信玄はまず、彼らを側仕えをする小姓にして教育します。

やがて御使番という、自分の意志を家臣たちに伝える役目につけて経験を積ませ、その後で侍大将や城代といった指揮官の地位を与え、武将として育成しました。

そして十分に実績を積み、能力を備えたとみなすと名家の家督と譜代家老の地位を与え、枢機に参画させています。

このように、元の身分に関わらず有能な若者を取り立て、中核を担う人材に育てていったことが、武田氏の強勢をもたらしました。

信長も農民出身の木下秀吉を取り立てて大いに出世させましたが、信玄もまた柔軟に優れた人材を見出し、起用していたことがうかがえます。

一方で武田氏の一族や、古くから勢力を持つ諸豪族にも適切な身分を与えて取り込んでおり、信玄の代に武田氏の勢力が内部から崩れることはありませんでした。

中世的な身分制度も温存される中で、信玄は巧みに家臣団を組織し、機能的に運用しています。

足利義昭からの呼びかけ

信玄が駿河の支配を固めていた頃、京都では足利義昭と織田信長の関係が悪化していました。

義昭は将軍になったものの、重要なことはすべて信長が決めてしまい、自分では何もできないことに不満を抱えるようになっていたのです。

信長が浅井長政や朝倉義景、石山本願寺などと敵対し、周囲にたくさんの敵を抱えるようになると、信長を追い落として他の武将に自分を担がせようと企みます。

そして信長の同盟相手である徳川家康や、信玄にもその意向を伝え、信長を攻撃するようにと呼びかけました。

家康はこれを黙殺しましたが、信玄は乗り気になります。

信長の勢力が短期間で激しく伸張したことから、これを脅威に感じるようになり、今のうちに叩いて弱らせるべきだと考えたのでしょう。

信玄は1571年に、家康の領地である遠江や三河に侵攻し、国境付近の城を奪取します。

しかし信玄は喀血してしまい、このためにやむなく軍を引きました。

信玄は20代の頃から病を抱えていたと言われていますが、それがこの頃になって、急速に悪化していたようです。

信玄はこの時50才でしたが、残された時間は、もうそれほど多くはありませんでした。

延暦寺の焼き討ちと、信長への非難

信玄が家康への攻撃を開始したのと同じ頃、信長は敵対した延暦寺を焼き討ちにし、僧や僧兵たちを数多く殺傷しました。

仏教の守護者を任じていた信玄は信長を強く非難し、延暦寺を甲斐に移して再興させようとまでしています。

この時に延暦寺の代表者である天台座主が甲斐に亡命し、信玄に再興を懇願するといった事態も起きています。

これによって信玄は上洛の大義名分を得ることになり、いよいよ本格的に京に軍勢を向けることを計画するようになりました。

この時に信玄は信長を「天魔の変化(へんげ)」と呼んで非難しますが、信長が自ら「第六天魔王」と名のって信玄を挑発した、という逸話があります。

これはルイス・フロイスという宣教師の史料にしか出ていないので、事実であったかどうかは、定かではありません。

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