武田信玄(晴信) 戦国最強の軍団を作り上げた「甲斐の虎」の生涯について

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甲州法度之次第を制定する

この頃には支配領域が急速に拡大したこともあって、信玄は新たに法を制定し、法治主義による領国の統治を開始しています。

信玄は志賀城を攻め落とした年に「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)」という分国法を定め、領内にその内容を告知しました。

国人領主たちが勝手に土地を処分することや、田畑を農民から取り上げることを禁じており、すべての土地は武田氏の領有であると定めています。

これは領民たちの財産を保護する規定でもありました。

また、家臣同士の喧嘩は両成敗にすることや、裁判や納税、財産の相続などについても規定しており、領国の安定した運営のために必要な規則が、多方面に渡って定められています。

特筆すべき事項としては、信玄自身もこれらの法に束縛されると名言されており、もしも信玄の判断が法に照らして誤っている場合には、身分を問わずにそれを訴え出ることができました。

このような規定を設けたことで、信玄が公正な法による統治を実践しようとしていたことがうかがえます。

この甲州法度之次第は後世からも参照されており、現代の民法にもその影響が残されています。

信玄の定めた法は世の現実にかなうものであったようで、強国を築く上での原動力として機能しました。

初の大敗を喫する

法を制定して統治体制を固めた後、信玄は信濃北部への侵攻を開始します。

同地には村上義清という勇将が割拠しており、かつては父・信虎と同盟を結んでいたことがありました。

しかし信玄の代には手切れとなっており、1548年に信濃北部の上田原で両軍は対峙します。

信玄はこの時に8千の兵を率いており、先鋒を板垣信方に任せました。

これに対して義清の軍勢は5千ほどで、序盤は数に勝る武田方が優勢に戦いを進めていきます。

しかし勝ちに奢ったのか、板垣信方はまだ敵が残っているのに、その近くで首実検を行って論功行賞を開始してしまいます。

義清は武田軍に隙ありと見て反撃に転じ、板垣勢に奇襲をしかけます。

信方は馬に乗ろうとしたところを敵兵に槍で刺し貫かれ、あえなく戦死してしまいます。

こうして武田軍の先陣を突き崩すと、勢いにのった村上勢は武田軍の本陣にまで迫り、信玄に手傷を負わせるほどの被害を与えました。

この時に信玄を守るために戦場に踏みとどまった甘利虎泰も戦死してしまい、信玄は腹心の両武将を一度に失うことになってしまいます。

武田軍は他にも何人もの武将を討ち取られ、700人の死傷者を出して完敗しました。

これが信玄にとって、初めての大きな敗戦となっています。

信方の行動に見られるように、武田軍には傲慢さが蔓延しており、それが手痛い失敗をもたらしました。

戦場に踏みとどまり、温泉で療養を行う

信玄は敗北しましたが、村上勢も大きな損害を出して撤退しており、追撃されることはありませんでした。

しかし信玄はそのまま上田原から撤退せず、20日にも渡って踏みとどまっています。

初めての敗北の経験であったため、それを潔くを受け入れられず、意固地になっていたのかもしれません。

あるいは撤退をしなかったことで、この戦いの損失がさほど大きくなかったのだと周囲の豪族たちに思わせようとした、という説もあります。

いずれにせよ、大敗したにも関わらず、なかなか軍を引かない信玄を側近たちが心配し、母の大井夫人に働きかけます。

夫人は信玄のところに使者を送り、撤退するようにと説得させました。

信玄は母の言葉を受け入れてようやく決意し、甲斐に帰還しています。

そして30日に渡って温泉で療養を行いました。

この間に体と心に負った傷を癒やし、次なる作戦について考え始めていたと思われます。

信玄の野心は、この敗北によってしぼんでしまうことはありませんでした。

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