寺を破却する
こうして事態が沈静化し、家臣たちが戻ってくると、家康は一向宗の寺に対しては厳しい態度でのぞみました。
和睦の際の条件を破り、他宗派への改宗を要求したのです。
もちろん空誓らはこれを拒みますが、すると家康は戦いによって一部がすでに破壊されていた寺院を、完全に破却してしまい、一向宗の教団を三河から追い出しました。
和睦時に家康は寺を元に戻すと約束しましたが、それは「寺がない原野の状態に戻すということだ」と言い放った、という逸話があります。
一度家康に帰参を許してもらった手前、これに反抗する家臣は出てこず、以後二十年に渡って三河では、一向宗が禁止された状態が続きます。
一揆の結果
このようにして、一揆が発生した結果、家康は反抗勢力を一掃することができたのでした。
しかし一時は多くの家臣たちが離反したことから、危機的な状況に追い込まれてもいました。
そんな中で勝機を見出して、一揆勢を打ち負かした家康の手腕は見事なものだったと言えるでしょう。
父の代に与え、松平氏の勢力を減じさせる原因になっていた不入の権を取り除き、家康に従う気が乏しかった武将たちを追い出しました。
これにより、家康の支配力がより強く三河に浸透し、その後の勢力の拡大がしやすい状況になったのです。
鎮圧には苦労しましたが、それ分だけ得られる成果も大きかった、という結果になったのでした。
戦国大名と宗教勢力
当時は一向宗に限らず、宗教勢力は並々ならぬ力を持っていました。
経済力と軍事力を兼ね備えており、大名とさほど変わらない勢力を持つ者たちもいたのです。
後に家康と同じ問題につきあたることになったのが、織田信長でした。
信長は畿内に勢力を伸ばした後、一向宗の本山である石山本願寺と敵対するようになります。
そして一向宗の勢力が強い摂津や伊勢などで激しい戦いとなり、これを鎮圧するのに10年もの歳月を費やすことになりました。
信仰を元にした武装勢力はそれだけ手強く、力を見せつけて配下として取り込むことも難しいからです。
家康が寺を破却して完全にその根を絶ってしまったのは、宗教勢力が持つそのような危険性を認識したからなのでしょう。
二十年後に一向宗が許される
その後、1583年になると、三河で一向宗の布教が再び許されるようになりました。
これを実現したのは妙春尼という女性でした。
彼女は石川数正の祖母であり、家康の母である於大の方の妹でもあります。
つまりは家康の叔母でした。
於大の方は家康が幼いころに離婚して去っていたため、家康の側には母親がいませんでした。
このために妙春尼が母親がわりになっていた、という話があります。
そして妙春尼は三河における一向宗門徒の代表者のような立場にもあり、本願寺門主とも親交がありました。
このため、一揆が終わってから長い時間が過ぎたころあいを見計らって、家康に赦免の要請をしたのだと考えられます。
この時期は、すでに石山本願寺が信長に降伏した後で、一向宗の脅威は去っていましたので、許可をしても問題ないと家康は判断したようです。
それを働きかけたのが、子供のころから世話になっていた妙春尼だったというのも大きかったことでしょう。
こうして二十年の時をへて、三河における一向宗の騒動は完全に終わったのでした。
その後への影響
家康は後に天下人になりましたが、その際に一向宗に対し、その勢力を弱らせる施策をとっています。
本山を西本願寺と東本願寺の二つに分けることで、宗教組織どうしが内部で争うように仕向けたのです。
内部抗争に気をとられれば、外に向かって勢力を伸ばそうとするのは難しくなりますが、これが家康による巧みな宗教の制御法でした。
江戸時代になって安定した秩序が形成されたこともあり、以後は一向宗が武装蜂起することはなくなっています。
このように、戦国時代の武将たちは宗教勢力との抗争、そして統御についても、神経を配らなければならなかったのでした。