水野氏が再興される
1580年になると、また情勢が変わりました。
この年に、信長の重臣だった佐久間信盛が追放されたのです。
その理由のひとつには、水野領を与えたにも関わらず、武士を雇い入れずに私腹を肥やしていたことがあげられています。
そして信長は、信元は冤罪だったとして、信元の末弟である忠重を取り立て、旧領を返還し、水野氏を再興させました。
これは於大の方にとってよいことではありましたが、一方では信長の思惑ひとつで、水野氏は激しく振り回されてしまったことにもなります。
我が子が人質になることに強く反対する
その後、1582年に本能寺の変が発生し、於大の方と家康の生涯に大きな影響を及ぼした、信長が世を去りました。
すると家康は勢力を伸ばし、中央で台頭した豊臣秀吉と対立するようになります。
そして1584年になると、家康は小牧・長久手の戦いで秀吉と対戦しました。
この戦いが終わると、家康は和睦のために秀吉のところに人質を送ることになります。
この際に、於大の方と久松俊勝との間に生まれた、三男の松平定勝が送られそうになりました。
しかし於大の方はこれに断固として反対したので、家康は断念し、自身の次男である秀康を人質として送ります。
於大の方からすると、家康と同じく我が子を人質にされるのは嫌だったのでしょうし、家康への怒りがとけきっていなかったこともうかがえます。
夫が亡くなり、出家する
1587年になると、出奔後に隠遁していた久松俊勝が亡くなりました。
すると於大の方は出家し、以後は伝通院と号するようになります。
これは久松氏の菩提寺である、安楽寺の住職から受けた号でした。
於大の方は、そのまま安楽寺で2年ほど暮らしています。
後陽成天皇、高台院と拝謁する
その後は、1602年に上京し、後陽成天皇や高台院(秀吉の未亡人)に拝謁したことが記録として残っています。
このころにはすでに関ヶ原の戦いが終わり、家康は征夷大将軍になっていました。
そして支配者の地位を追われた豊臣氏とは、潜在的な敵対関係になります。
しかしこの時期の家康は、まだ豊臣氏とことを構えるつもりはありませんでしたので、母に天皇と高台院に拝謁してもらい、敵対する意志がないことを表明したのでした。
このような活動を行っていることから、於大の方と家康の関係は、このころには問題がなくなっていたのだと推察されます。
伏見城で亡くなる
この時期、家康は京都の伏見城に滞在していました。
於大の方は拝謁後の8月に、この伏見城で、波乱の多かった生涯を終えています。
於大の方は遺言で、遺体を江戸に葬るようにと言い残していました。
このため、家康はそれに従い、小石川に伝通院を建立し、そこに葬っています。
このお墓は現在でも文京区に残っており、他の徳川一族の女性も多く葬られています。
また、久松氏の菩提寺である安楽寺に位牌が設置され、千葉に光岳寺が建立されるなどしており、各地に於大の方ゆかりの寺院があります。
於大の方の子孫
於大の方のと久松俊勝との子の中では、三男の松平定勝の家が最も栄え、伊勢桑名で11万石の大名になっています。
そして甥である2代将軍・秀忠の相談役となり、頼りにされました。
3代将軍・家光は大老職を設置しましたが、これは定勝のように、よく将軍を補佐できるほどの存在にこの地位を与えようと、意識してのことだったとされています。
それほど定勝は評価の高い人物だったのでした。
定勝の家はやがて伊予の松山に加増移封され、幕末まで15万石の大名として存続しています。
長男の康元と、次男の勝俊の家は旗本や小大名として、こちらも幕末まで家系をつなぎました。
また、娘たちは松平一族に嫁ぎ、大名夫人になるなどしています。
過酷な生涯
これまで見てきたように、於大の方は離縁させられ、子と引き離され、兄を殺害され、夫に出奔されるといったように、様々な苦難に遭遇しています。
中小規模の豪族の娘に生まれると、その身分も、実家の存立も安定したものではなかったのでした。
家康の母として世に知られる存在ですが、その家康との関係も、いつも良好なばかりではありませんでした。
於大の方の生涯からは、戦国時代を生きた女性が置かれた、過酷な境遇をうかがうことができます。