於大の方(伝通院) 乱世に翻弄された家康の母

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水野信元が暗殺される

1576年になると、水野信元に裏切りの疑いがかけられます。

この直前の1575年に、信長は武田勝頼の配下である、秋山信友を攻めていました。

信元はこれと内通し、食糧を輸送していた、というのが嫌疑の内容です。

信長はこの報告を受けると、家康に信元を殺害するようにと命じました。

すると家康は、義理の父である久松俊勝に頼み、信元を三河の大樹寺へと連れてこさせます。

そこで家康が用意した刺客によって、信元は殺害されてしまいました。

久松俊勝は何も知らされていなかったので、この事態に驚愕し、そして怒ります。

「このようなことだとは知らずに、信元を迎えに行って討たせてしまったことは、なんと無残なのだろう。世の人にこのことを知られるのは、とても恥ずかしい。わしは徳川殿を深く恨む」

このように述べ、出奔してしまいました。

この結果、於大の方は兄を殺され、夫に出奔されてしまったことになります。

信元暗殺の背景

信元は家康の危機をたびたび救うなど、頼れる支援者として活躍し、そして自身の勢力もじわじわと拡大していました。

暗殺されたころには、24万石の領主になっていたと言われています。

そして家康の伯父という立場もあり、三河の統治に対しても影響力を持つようになっています。

しかしこのころになると、信長からすると、信元の存在は必要がなくなっていました。

1575年の長篠の戦いで大勝を収めたことにより、三河に対する武田氏の影響力がなくなり、すっかり平穏になります。

するとこの機に、なかば独立勢力として存在している信元を排除し、尾張を完全に我がものとし、三河の統治は家康に一本化したい、と信長は考えるようになりました。

信元は信長からすると、自分の意のままに完全には動かしづらい存在で、邪魔になってきていたのです。

このため、信長は水野領から武田氏に協力した者がいたことを幸いとして、それを名目に信元を殺害させてしまったのでした。

家康からしても、信元はわずらわしい存在になってもいたようで、信長の命令に逆らわず、排除を実行しています。

背景にはこのような政治的な事情があったのですが、このころから信長は、支配権を強化するために、各地で粛清を実行するようになっていました。

信元はその犠牲になったのです。

結局は、水野氏は大勢力の思うがままに、翻弄される存在であり続けたのだということになります。

水野氏の領地は、信元が裏切ったと信長に密告した、佐久間信盛のものになってしまいました。

それにしても、強大な信長の命令であったとは言え、義理の兄を殺害し、義理の父をだました家康は、なかなか非情な人間でもありました。

久松氏も所領を没収される

久松俊勝の子である信俊のぶとしは、於大の方の子ではありませんでしたが、久松氏の所領を受け継ぎ、信長に仕えていました。

そして石山本願寺攻めに参加していたのですが、指揮官である佐久間信盛が信長に密告し、謀反を企んでいると疑われてしまいます。

これに憤慨した信俊は、四天王寺で自害しました。

すると佐久間信盛は、久松氏の居城である坂部城を攻め落とし、信俊の子供を殺害し、久松氏を滅亡させてしまいます。

こうして於大の方の実家も、嫁ぎ先もまた、ともに滅んでしまうことになりました。

家康に引き取られ、夫の死後に出家する

久松俊勝の出奔後、於大の方と子供たちは、家康のもとに引き取られていました。

しかし兄を我が子の差し金で殺され、夫が出奔することにもなったので、於大の方の心中は、決して穏やかなものではなかったでしょう。

水野信元の殺害には、家康の重臣である石川数正が関与しており、このために於大の方は数正を恨むようになった。

これが後の数正の出奔につながっている、という説を唱える人もいます。

於大の方の怒りや恨みの矛先が、誰かしらに及んだというのは、ありえないことでもないでしょう。

家康との関係も緊張し、この時期の徳川家の内部には、冷たい空気が流れていたことと思われます。

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