久松俊勝と再婚する
於大の方は離縁した後、しばらくは椎の木屋敷という場所で暮らしました。
ここには同じように離縁されていた姉もまた、一緒に住んでいたと言われています。
水野氏の女性たちは、みな不安定な境遇にあったようです。
やがて1547年になると、於大の方は久松俊勝に嫁ぐことになりました。
久松氏は、知多郡の阿古屋に拠点を持つ豪族です。
かつては水野氏と協力関係にありましたが、このころには水野氏と松平氏、どちらに味方するのか、態度をはっきりさせないようになっていました。
このため、水野氏との結びつきを強くするために、於大の方が嫁いだのです。
これより、於大の方は久松俊勝との間に、三男三女をもうけることになりました。
尾張と三河国境付近の勢力関係
家康が今川氏の人質になる
翌1548年になると、家康は今川氏のもとに送られることになりました。
この年に三河の小豆坂で、織田軍と今川・松平連合軍が対決したのですが、今川方が勝利して、織田信広を捕虜にします。
信広は信秀の庶長子で、捕虜として高い価値がありました。
ですので、この機会に信広と家康の交換が行われ、家康は三河に戻ってくることができたのです。
しかしすぐに今川氏の拠点である、駿河に送られてしまいました。
そしてその翌1549年には、父である広忠がわずか24才で急死します。
これは病死だったとも暗殺だったとも言われているのですが、真相ははっきりしていません。
ともあれ、これによって松平氏は当主が不在の状態になり、三河では今川氏の支配力が強まっていくようになりました。
竹千代との音信は続く
竹千代が駿河で暮らすようになると、於大の方はたびたび衣類やお菓子などを届けさせました。
長く会えない状態にありましたが、離れていても音信は続いていたのです。
また、このころには於大の方の母である於富の方、つまりは竹千代の祖母も、今川氏に身を寄せていました。
そして今川義元に申し出て、竹千代の世話をしています。
こういった状況であったことから、於大の方は於富の方とも連絡を取り、竹千代の様子を知らせてもらうなどしていたことでしょう。
桶狭間の戦いで状況が一変する
竹千代は今川義元の元で養育され、やがて元服して松平元康と名のるようになります。
そして義元配下の武将として戦い始め、織田方についた三河の武士を討伐するなどしました。
1560年になると、桶狭間の戦いが発生しましたが、これが家康の人生にとって大きな分岐点となります。
これは今川義元が2万5千もの大軍を動員し、織田信長の打倒を目指して尾張に攻め込んだ戦いでした。
この戦いで、元康は尾張西部にあった大高城への救援を行い、織田方の砦を陥落させるなどして活躍しています。
しかしそうしているうちに、義元自身は信長の奇襲を受けて敗北し、討ち取られてしまいました。
このことを、於大の方の兄である水野信元が元康に知らせ、このために元康は撤退して三河に戻ります。
そして今川氏からの独立を決意しました。
元康からすると、自分に対する絶対的な支配者がいなくなり、自由を得たことになります。
そして於大の方とも、会いたい時に会えるようになったのでした。
於大の方の子が松平姓になる
元康は三河での独立を果たすと、世に知られる家康を名のるようになります。
「元」の字は義元の一字をもらったものでしたので、これを捨てることで、世に独立したことを示したのでした。
そして家康は於大の方と再会すると、於大の方が久松俊勝との間に生んだ子どもたちに、松平姓を名のることを許します。
これによって家康は、父親が異なる弟妹たちも、一族として迎えることを示したのでした。
こうして於大の方と家康は、長い時をへて親子の関係を取り戻したのです。
清洲同盟が成立し、尾張と三河の国境が平穏になる
1562年になると、家康と信長は清洲同盟を結び、松平氏と織田氏の争いを終結させました。
この同盟の成立には、於大の方の兄・水野信元が尽力しています。
こうして家康と信長が同盟を結んだことで、三河と尾張の国境は平穏なものとなりました。
このため、その間に挟まれていた水野氏と久松氏は、家康や信長に協力しつつ、安定した時期を過ごすことができるようになります。
しかしそれは、いつまでもは続きませんでした。
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