井伊氏は遠江(静岡県西部)の井伊谷に勢力を持っていた豪族です。
鎌倉時代から同地の領主になっており、長く割拠していました。
戦国時代になると駿河(静岡県東部)の今川氏の勢力下に入りますが、時に対立し、時に従いと、付かず離れずの関係でもあったようです。
今川義元が勢力を伸ばしていた時代には、井伊直盛という人物が当主になっており、今川氏の傘下の武将として活動しています。
井伊直盛
井伊直盛は1526年に生まれ、長じて井伊氏15代目の当主になりました。
武勇に優れた人物であったようで、今川義元が1560年に尾張への侵攻を企図した際には、先鋒の大将に任じられました。
先鋒の大将は敵軍と最も激しく戦う立場でしたので、通常は配下の人材の中から、最も戦闘力に優れた武将が選ばれます。
今川軍は2万という大軍を擁していたため、尾張に侵攻後、いくつかの拠点を占拠するなどして戦況を有利に進めます。
しかし、桶狭間を5千の本隊が進軍していたところ、尾張の領主・織田信長が率いる2千の部隊の奇襲を受けます。
豪雨が降っていたために視界が悪く、不意をつかれた今川軍は動揺し、数で勝りながらも戦いに敗れ、総大将である今川義元が討ち取られてしまいます。
この時に直盛も戦死し、井伊氏は当主を失うことになります。
井伊直親
井伊直親は直盛の養子で、直盛が戦死した後で井伊氏の家督を継承しました。
直盛には男子がいなかったため、従兄弟の直親を養子に取る措置が取られていました。
しかし、家督を継いでわずか2年後の1562年、主君の今川氏真から、敵対する松平家康に内通しているのではないかという嫌疑をかけられます。
これは家老の小野道好が偽りの告げ口をしたためで、直親が謀反を企んでいた事実はありません。
直親は無実を訴えますが、申し開きをするために駿河に向かう途中で、今川氏真の家臣・朝比奈泰朝に襲撃され、討ち取られてしまいます。
この時わずか28才で、あいついで当主を失った井伊氏は、滅亡の危機に瀕することになります。
井伊直平
井伊直平は直盛の祖父で、井伊氏の13代目当主です。
直親の死亡時にすでにかなりの高齢(74才)でしたが、他に成人している直系の男子が絶えていたことから、直親の子・虎松の後見にあたります。
しかし直親死亡の翌1563年に、遠江の犬居城攻めに参加し、その際に戦死してしまいます。
これは家臣による毒殺だったという説もあります。
さらにこの後に井伊氏は親族や重臣を遠江の戦乱で失い、著しく弱体化していきます。
井伊直虎
井伊直虎は男性のような名前ですが、直盛の娘です。
子どものころに出家しており、井伊氏の菩提寺である龍潭寺で尼となっていました。
直盛・直親・直平が次々と亡くなり、当主となるべき直親の子・虎松がまだ幼かったことから、還俗して井伊氏の当主になりました。
あくまでその立場は中継ぎであり、正式な当主としては記録されていませんが、当時から「女地頭」と呼ばれており、その権威はある程度は認められていたようです。
(この当時の「地頭」は領主の意)
1565年から仮の当主となり、井伊氏の存続のために井伊谷の統治にあたりました。
1568年には家臣の小野道好に、1572年には武田氏の家臣・山県昌景に居城を奪われるなど、いくたびも滅亡の危機を迎えますが、そのたびに切り抜け、井伊氏の存続に成功しています。
(なお、井伊氏の滅亡を図った小野道好は、かつて直親を無実の罪に陥れたことを徳川家康に咎められ、処刑されています。)
1575年には虎松に井伊万千代と名のらせ、遠江の支配者となっていた家康に仕官させます。
万千代は武田軍との合戦で戦功をあげ、家康からもその才能を高く評価されるようになっていきます。
こうして万千代の成長を見届けた後、直虎は1582年に死去しました。
井伊直政
井伊直政は直親の子で、直虎の養子です。
幼いころは小野道好に命を狙われており、三河の寺に送られ、そこで成長しました。
最初は万千代と名のっていましたが、やがて元服して直政を名のっています。
そして徳川四天王に数えられるほどの名将として成長し、主に軍事・外交面で活躍しました。
家康の養女を妻とし、家臣団の筆頭の地位にまで上り詰めています。
後に彦根に18万石の領地を与えられるほどに出世し、井伊氏の立場を盤石のものとしました。
関ヶ原の戦いで負傷し、その傷が元で1602年に、41才で亡くなっています。
付記・井伊氏の家督の継承順
直平 – 直宗 – 直盛 – 直親(養子) – 直虎(直盛の娘) – 直政(直親の子)


