「徒然草」の作者、吉田兼好(兼好法師)について

吉田兼好は「徒然草」の作者として名高い人物です。

出家後の兼好法師という名でも知られています。

1283年頃に誕生し、鎌倉幕府の滅亡から南北朝の動乱の時期に生涯を送っています。

神職か武士か

従来は神職の出身だと言われていましたが、現在では「滝口の武士」の出身だったという説が出てきています。

滝口の武士は朝廷を守る警護兵のことで、従六位程度の官位を持っていました。

兼好は執権・金沢貞顕や九州探題・今川了俊といった身分の高い武士たちと親交がありましたので、滝口の武士の出身だったという説には信憑性があると思われます。

また、徒然草に武術を学ぶことの重要性が記述されていることも、この説を補強する要因になるでしょう。

若くして出家する

1313年ごろには既に出家していたとの記録があり、30才になる前に遁世していたことになります。

どうして出家したのか、その理由については定かではありませんが、権力や富に執着のない人物だったことは確かなようです。

出家後は仏道修行に励み、和歌を学び、後世に名を残す要因となる、文学的な素養を磨くことにも時を費やしていました。

大阪にある正圓寺付近に庵を構え、清貧な生活を営んでいたとされています。

ある程度の規模の田畑を所有していたという話もあり、自適な生活を送るための資産を保有していたようです。

文学的な才能

二条為世という公卿に和歌を学んでおり、門下では四天王に数えられるほど達者でした。

「続千載集」などにその作品が収録されており、こちらの方面でも著名な人物だったようです。

この時代では、和歌が上手に詠めるのは一種の特殊技能であり、身分の高い人と知り合うきっかけ作りにもなりましたので、世過ぎの上でも何かと役に立ったものと思われます。

そして有名な随筆文集である「徒然草」は、日本三大随筆のひとつに数えられるほど広く知られています。

兼好が出家していただけに、僧侶に関する説話が多いのですが、堅苦しいものではなく、ちょっとした笑い話なども含まれており、全般的に読みやすい内容になっています。

簡潔で達意の文章が文学的に評価されているだけでなく、風俗についても様々に記されているため、当時の社会状況を知るための歴史的資料としても高く評価されています。

これは兼好が中年期に書いたものだと言われていますが、若い頃の文章も含まれており、正確な成立年代は不明です。

和歌を作ったり徒然草を書く一方で、足利尊氏の側近・高師直の恋文を代筆したという話が「太平記」に残されており、洒脱なところも備えた人物だったようです。

死後に徒然草が有名になる

没年は1352年ごろとされており、68才まで生きたと言われています。

死後に弟子の命松丸や、友人の今川了俊が徒然草の編纂を行っています。

しばらくはこの書物の存在は世に知られませんでしたが、死後から100年ほどが過ぎた室町時代の中期ごろから、よく読まれるようになりました。

江戸時代には挿絵をつけた徒然草が制作されるなどしており、庶民たちの間でも身近な古典として親しまれるようになっていきました。

現代でも同じように読み継がれ、吉田兼好の名も長く語り継がれています。