薩英戦争における薩摩藩の死傷者数は少なすぎるのではないか?

最近、1863年に発生した薩英戦争について調べていたのですが、どうも不自然だな、と感じたことがありました。

それは、この戦争における薩摩側の死傷者数が、異常なまでに少なすぎるのでは? という点です。

この戦いではイギリス側は63名が死傷し、薩摩側は19名が死傷した、とされています。

しかし、薩摩側は台場を攻撃されて8門の大砲を失い、7万人が居住していた鹿児島城下の市街地の10分の1を焼き払われる、という甚大な被害を受けています。

その割に死傷者数があまりに少ないので、検証をしてみることにしました。

薩英戦争はどうして発生したのか?

薩英戦争は、生麦事件が契機になって発生した、イギリスと薩摩藩の間で行われた戦争です。

生麦事件は、薩摩藩主の父親である島津久光の一行が、横浜港の近くにある生麦を通行中に、騎乗したイギリス人たちに行列に乱入され、それに怒った薩摩藩士がイギリス人3名を殺傷した事件です。

イギリス政府はこの事態を受け、徳川幕府から10万ポンドの賠償金を受け取り、薩摩藩とも直接交渉を行うため、7隻の蒸気船からなる艦隊を薩摩に派遣しました。

やがて両者の間で交渉が開始されますが、薩摩藩は「生麦事件に関して責任はない」と回答したために決裂し、イギリスは武力行使に踏み切ります。

薩摩藩の不可解な戦闘被害

イギリス海軍はまず、薩摩藩の所有する3隻の蒸気船に戦闘員を乗り込ませ、これを掠奪します。

この時に薩摩側の乗員が抵抗しますが、イギリス兵は銃剣で殺傷して追い払いました。

そしてイギリス艦隊は薩摩藩が築いていた海岸沿いの台場に接近し、砲撃を加えます。

この攻撃によって、薩摩側の8門の大砲が破壊されました。

この時に薩摩藩士1名が死亡し、守備兵6名が負傷した…とあるのですが、まずこの点が不可解です。

大砲が破壊されたということは、直撃弾があったということですし、そうなると大砲を操作していた兵士たちも、一緒に砲撃を浴びて死傷したはずだからです。

実際にイギリス艦では、甲板に備えた大砲が、薩摩側が放った砲弾の直撃を受け、付近にいた12名の兵士が一度に死傷(7名が死亡、5名が負傷)する事態が発生しています。

薩摩側は8門も破壊されたにも関わらず、死者が1名というのは明らかに不自然です。

大砲1門ごとにイギリス側と同規模の被害が発生したと仮定すると、100名程度は死傷していないと計算が合いません。

1名死亡というのが事実なら、大砲が破壊される時には、都合よく砲員たちは大砲の付近から離れ、逃げ去っていたことになります。

もしも実際にそんなことをしたら、敵前逃亡の罪に問われることになりますので、考えにくい事態です。

薩摩藩の兵士たちがそんなに臆病であるのなら、イギリス艦に損害を与えることはできなかったでしょう。

市街地の被害

イギリス艦隊は鹿児島城下や付近の施設への砲撃も行っており、甚大な被害を与えています。

まず、イギリス艦隊は前薩摩藩主・島津斉彬が近代工場群を築いた集成館の一帯を砲撃し、これを破壊しました。

さらにロケット弾も用いて市街地に砲撃を加え、民家350戸、侍屋敷160戸と、多くの寺院が焼失し、2つの火薬庫が失われ、鹿児島城の櫓や門にも損害が出たとあります。

この時に発生した火災によって、市街地の10分の1が焼失しています。

砲撃を受けた施設には火薬庫が含まれますが、これが爆発すれば、その周辺の地域にも大きな被害をもたらします。

にも関わらず、市街地での人的被害の記録は、守備兵3名が死亡、5名が負傷とあるだけです。

当時の鹿児島の城下には7万人程度が居住していたそうですが、その城下の10分の1が焼失したにしては、死傷者が少なすぎると言えるでしょう。

事前に安全なところに住民を避難させていた、ということもありうるでしょうが、住民のうち5万人が士分か足軽ですので、敵に攻め込まれていた最中に全員を避難させていたとは考えにくく、実際にはもっと人的被害が出ていた可能性が高いと思われます。

イギリス側の損害との比較

これに対し、イギリス側は旗艦の艦橋に直撃弾を受けたことで、艦長や次官司令が戦死するなどし、こちらは質的に大きな被害を受けています。

この戦争を通し、イギリス側は13名が戦死し、50名が負傷しました。

これに対し、薩摩藩は合計で20名程度が死傷した、と主張しているのですが、これまで見てきたとおり、受けた被害に対し、明らかに死傷者数が少なすぎると思われます。

兵器の質はイギリスの方が勝っていますし、にも関わらず薩摩の方が人的被害が少なかった、と説明できる合理的な理由は見当たりません。

施設や市街地の被害の規模からして、実際には数百名程度の死傷者が出ていた、と推測しても、それほど無理はないでしょう。

もっと検証が必要なのではないか

戦闘の経過を見ていくことによって、薩摩側の被害の申告が、過小になされているのではないか、という疑いが湧いてきました。

この戦いではイギリス側の方が人的被害が大きかった、という話を聞いて、どうしてだろうと思っていたのですが、薩摩側が隠蔽しているだけなのではないか、と考えました。

薩摩藩は「日本の一部だけを治める大名」という立場にしては善戦したのは確かですが、大砲や市街地の損害など、隠しづらい領域の被害状況を見ると、死傷が20名ですんだというのは、ちょっと飲み込みにくい話です。

当時の最強国家であったイギリスと日本は互角に渡り合えたのだ、という神話を形成するために、薩英戦争における被害の正確な検証は怠られて来たのでは…という疑問も湧いてきました。

薩摩藩の方が人的被害が少なくてすんだ理由が、合理的に説明されている資料が存在していて、私が知らないだけなのであれば読んでみたいですが、どこかにあるのでしょうか。

機会があれば、この問題についてはまた調べてみたいと思います。

なお、戦闘の経過やそれぞれの被害状況などについては、wikipediaの記事を参照しています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E8%8B%B1%E6%88%A6%E4%BA%89