美濃三人衆とは

美濃三人衆は戦国時代に美濃(岐阜県)の西部を支配していた国人領主たちを指す名称です。

安藤守就(もりなり)・稲葉一鉄・氏家直元の3人を指します。

彼らは美濃を支配する斎藤氏に仕えていましたが、尾張の織田信長の勢力が伸びてくるとこちらに寝返り、信長の美濃支配の確立を後押ししています。

この働きによって歴史に名を残すことになりました。

安藤守就とは

安藤守就は1503年に生まれ、美濃の国主・土岐頼芸に仕えていましたが、斎藤道三が美濃を奪取すると、その家臣になりました。

その後、道三と嫡男の義龍が争った時には義龍側について勝利し、その勢力を保っています。

義龍の死後にその子・龍興が斎藤氏を継ぐと、主家との関係が悪化します。

龍興は三人衆を軽んじ、これに不満を抱いていた安藤守就は娘婿の竹中半兵衛と一緒に、龍興の居城・稲葉山城を乗っ取る事件を起こします。

その後は美濃に侵攻してきた織田信長の傘下に入り、斎藤氏を攻め滅ぼす手助けをしました。

こうして巧みに勝者から勝者へと主人を乗り換え、勢力を保っています。

信長の傘下では越前攻め、伊勢長島攻め、石山本願寺攻めなどに従軍し、信長直属の部隊として活動しています。

しかし1580年になると信長から謀反の嫌疑をかけられ、領地を没収されて追放されてしまいます。

この時期には林秀貞や佐久間信盛などの老臣たちも排除されており、こうした動きに巻き込まれたようです。

また、安藤守就は策略を弄する性格で、信長が包囲網によって窮地に陥っていた際に謀反を計画した形跡があり、それを蒸し返されて責められたのだとも言われています。

本能寺の変で信長が死去した際に領地の奪還を試みますが、かつての同輩であった稲葉一鉄に攻め滅ぼされています。

この時代としてはかなり長命な人物で、享年は80だったと言われています。

稲葉一鉄とは

稲葉一鉄は1515年に生まれました。

子どもの頃は寺に入って仏道を学んでいましたが、父と兄たちが浅井氏との戦いで戦死したため、還俗して家督を継いでいます。

はじめ土岐頼芸に仕え、ついで斉藤道三に仕えています。

安藤守就と同じく、道三と義龍の親子が争った際には義龍について家名を保っています。

一鉄の姉は深芳野(みよしの)といい、道三の妻になって義龍を生んでいます。

つまり一鉄は義龍の叔父にあたる人物でもあります。

義龍の死後はその子の龍興に仕えますが、政務をかえりみない龍興に諫言したところ、これが受け入れられず、斎藤氏から心が離れていきます。

1567年に美濃への侵攻を進めていた織田信長に鞍替えし、稲葉山城の攻略戦でも活躍しました。

武勇に秀でた人物で、以後は信長の直属軍となって活躍し、姉川の戦いや長篠の戦いなど、信長の主要な戦いに参加して各地で戦功を立てています。

その功績が認められ、信長から新たに美濃清水城を与えられるなどしています。

本能寺の変で信長が死去すると、道三の遺児を擁立して美濃の独立を画策し、明智光秀に対抗する姿勢を取ります。

その後、美濃は信長の三男・信孝の領地となりますが、これに従わず、信長にかわって中央を制しつつあった羽柴秀吉に味方します。

1585年に羽柴秀吉と徳川家康が対戦した小牧・長久手の戦いにも、70才を超えて従軍しており、これが最後の参戦の機会になりました。

1588年に天寿を全うし、74才で死去しています。

子孫は九州の豊後(大分県)で5万石の大名家として存続しています。

三代将軍・徳川家光の乳母となり権勢をふるった春日局は、一鉄の孫にあたります。

余談ですが、頑固な人間のことを指す「一徹者」の語源は、一鉄の名から来ていると言われています。

氏家直元とは

氏家直元は卜全(ぼくぜん)ともいい、他の二人と同じく土岐頼芸の家臣でした。

斉藤道三に仕え、ついで義龍・龍興に仕えています。

信長の美濃侵攻に応じて鞍替えし、以後は信長の家臣となっています。

姉川の戦いなどで活躍しますが、伊勢長島攻めで織田軍が苦境に陥り、撤退する際に敵の追撃を防ぐべく殿を務めます。

この際に追撃して来た佐々木祐成という武将に討ち取られています。

早くに戦死してしまったため、三人衆の中では最も影が薄い人物となってしまいました。

享年は59だったと言われています。

子の行広は関ヶ原の戦いの際に中立を保とうとしたものの、強引に西軍に組み入れられて敗北し、領地を失っています。

後に大坂の陣にも参加しますが、大坂城の落城の際に自刃し、氏家氏は完全に滅亡してしまいました。

子どもたちも処刑されますが、出家して天海の弟子となっていた3男だけが助命され、生きのびています。