織田信雄は織田信長の次男として1558年に生まれました。
信長の子にしては何かとうかつなところが多く、織田家中でも暗愚な人物と見られていました。
それでいて戦国の世をなんとかくぐり抜け、小さいながらも大名として生き残っています。
この文章ではそんな信雄という人物について、さっくりと書いてみようと思います。
北畠家の養子となる
1569年に父・信長が伊勢を攻略します。
その際に信雄は、織田に降った伊勢の大名・北畠氏の養子となり、北畠具豊と称することになります。
この措置には、伊勢を平定するためだけでなく、信雄を他家に養子に送り、織田氏の後継者にはしないことを明らかにする意図もありました。
信長には弟と勢力争いをした経験がありましたが、自分の子どもたちに同じことをさせないよう、はっきりと序列をつける方針を取っていました。
北畠家を乗っ取る
その後、信雄は成人して北畠氏を継承します。
そして、1575年には北畠一族を騙し討ちによって皆殺しにし、その実権を奪い取りました。
これは北畠一族が織田家に心服していなかったことが原因でしたが、結果として信雄が北畠家を完全に乗っ取る形になりました。
戦国の世では珍しいことでもありませんが、ずいぶんと血なまぐさい話ではあります。
信雄は、こうした動きによって伊勢に自身の勢力を得るに至ります。
重臣を粛清する
北畠家の当主となってしばらく後、家臣にそそのかされ、長年の補佐役であった津田一安という人物を粛清しています。
信雄は他人に乗せられやすい人間で、重臣であってもあっさりと殺害してしまう傾向にありました。
簡潔に言えば、頭の軽い人だったということになるでしょう。
この傾向は、後に敵となる羽柴秀吉に利用されることになります。
伊賀を攻めて失敗し、信長に叱責される
北畠氏を掌握し、独立した軍団を持ったことで慢心したのか、1579年に、信雄は信長に無断で兵を動かします。
伊勢の隣国の伊賀に、8000の兵で攻め込みました。
しかし伊賀の国人衆の強い抵抗を受け、攻略に失敗して大敗を喫します。
この時には信長に「親子の縁を切る」とまで書状で告げられて叱責されました。
このあたりの行動からも、思慮の浅い人物だったことがうかがい知れます。
本能寺の変で父を失う
1582年になると、信長が家臣の明智光秀に討たれる「本能寺の変」が発生します。
この時に信雄は近江の甲賀のあたりまで兵を出すのですが、光秀とは対戦せず、そのまま撤退しています。
おそらくは歴戦の武将である光秀と、単独で戦って勝利する自信がなかったのでしょう。
それならば、羽柴秀吉が中心となって集めた光秀討伐軍に参加すればよいのですが、それすらもせず、父の死後の戦いを傍観してしまいました。
そして光秀が羽柴秀吉に敗れた後、無人となった亡父の居城・安土城を接収しますが、なぜか安土城とその城下に放火し、これを焼失させてしまいます。
この行動の理由は不明ですが、宣教師ルイス・フロイスは「普通よりも知恵が劣っていたので、何ら理由もなく城を焼き払った」と手厳しい評価を下しています。
信長ほどの人物から、こうした子どもが生まれ育つのはどうしてなのかと、不思議にも思えてきます。
清州会議で推薦されず
その後、信長の後継者を選ぶ「清洲会議」が開かれますが、信雄は誰にも推薦されず、信長の後継者にはなれませんでした。
長男である信忠が本能寺の変で戦死していたため、次男である信雄は、普通であれば推されてもおかしくはない立場にありました。
しかし、それまでの行状がたたり、織田家の当主にするにはふさわしくないと、皆に思われてしまったのでしょう。
特に光秀討伐時の無策なふるまいと、その後の安土城への理由なき放火が影響したと思われます。
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