鴨長明は「方丈記」という随筆を書いたことで知られる人物です。
随筆の他、和歌や琵琶の演奏にも秀でるなど、芸術的な才能を豊富に備えていました。
1155年に生まれ、公家の世が衰退し、武士の台頭がはじまる変動期に生涯を過ごしています。
神職の家に生まれる
長明は賀茂神社の神事を司る禰宜(ねぎ)・鴨長継の次男として誕生しました。
賀茂神社は正一位の神階を持ち、皇女が斎王として奉仕するほど格式の高い神社です。
長明は6才の時に従五位下に叙爵されており、幼いころは家勢が盛んであったことがうかがえます。
しかし1172年に父が死去すると、一族との間で禰宜の地位を争うことになります。
父の死後に有力な後ろ盾を得られず、長明は父の職位を継承することができませんでした。
賀茂神社の禰宜には、親族の鴨祐兼が就くことになります。
和歌を通して後鳥羽上皇と知り合う
長明はその後、和歌や琵琶を学ぶなどして、芸術方面でその才能を開花させます。
「千載和歌集」に1首が、「新古今和歌集」には10首の和歌が収録されています。
1201年に和歌所の寄人に任命され、その方面では世に認められる存在になっています。
そして和歌の道を通じて、後鳥羽上皇という有力な皇族と知り合うようにもなりました。
しかし、和歌が詠めるだけでは地位も収入も得られませんので、長明は禰宜になることを願い、その機会を待ちます。
琵琶の演奏に関しても、名手と呼ばれるだけの才能がありましたが、この時代では、それだけで富を得られるような環境は用意されていませんでした。
河合社の禰宜の地位を争う
1204年になると、河合社(ただすのやしろ)という神社の禰宜に欠員が生じ、かねてよりこの地位を望んでいた長明は、これを得ようと活動します。
そして後鳥羽上皇の後援を受けることもできたのですが、ここでまたしても一族と地位を争うことになりました。
父に代わって賀茂神社の禰宜になっていた鴨祐兼が、長男の祐頼を推薦し、強硬に長明の就任に反対してきます。
これに押される形で、長明はまたしても禰宜になれませんでした。
この時の長明はもう39才になっていましたが、一族に妨害され続け、望む職に就けないことに嫌気がさしたようです。
気の毒に思った後鳥羽上皇が、長明に他の神社の職を斡旋してくれますが、これを断り、ついに出家してしまいます。
この頃には、禰宜の地位を争って殺人が発生することもあり、武士の台頭の影響を受けたのか、ずいぶんと血なまぐさい情勢になっていたようです。
そういった状況もまた、長明の厭世感を強めるのに影響したと思われます。
方丈を作り、流浪の日々を送る
長明は組み立て式の小さな住居を作り、車に乗せて自由に移動できる環境を作りました。
そしてそれを運んで、東山、大原、日野といった京都各地に自儘に移り住んでいます。
この住居は一丈(約3メートル)四方の広さで、これが後に記す「方丈記」の題名の元になりました。
仏道に帰依し、小さな住居で、清貧の暮らしで事足りるようにと思想を磨いていきます。
最後の職を得る機会
1211年、長明が56才の時、再び仕官の機会が訪れます。
この時に鎌倉の将軍・源実朝が和歌の師匠を求めていたのです。
長明は鎌倉幕府と関係が深い公家の飛鳥井雅経に推薦され、鎌倉に下向します。
しかしこの話も成立せず、ついに生涯に渡って目立った職につくことができませんでした。
和歌所の寄人でたいした禄を得られたとも思えず、長明は祖母や父から受け継いだ資産を切り崩して生活をしていたものと思われます。
方丈記の成立
1212年に長明は随筆「方丈記」を執筆します。
これは和漢混淆文の文芸としては初期のもので、日本三大随筆の一つとして数えられています。
仏教の無常観が主題として据えられ、京の都が度重なる災害によって衰退していく様子や、多くの人が飢饉などで死んでいく様が描かれています。
それをふまえ、長明が小さな住まいでの静かな暮らしを望むようになっていった、その心情の移り変わりが記されています。
方丈記を記してから4年後の1216年、長明は61才で他界しています。


