織田信雄 信長の不肖の次男は、意外としぶとく生き延びる

小牧・長久手の戦いを発生させるも、敗れる

信雄は父の死後に天下人になりつつあった羽柴秀吉に反発し、徳川家康と手を組んで秀吉と戦います。

この戦いはその舞台となった地から名を取られ、「小牧・長久手の戦い」と呼ばれています。

信雄・家康連合軍は大軍である秀吉軍に対し、善戦して戦況を膠着させます。

しかし、この時に活躍したのは家康の方で、信雄は家中が混乱させられ、まともに秀吉軍と戦えていませんでした。

信雄はこの戦いの前に、秀吉の謀略によって3人の家老が反乱を企んでいると思い込み、彼らを粛清してしまっていました。

その結果、3家老の遺臣たちに背かれ、さらに複数の配下の武将に裏切られるなどして窮地に陥ります。

こうして調略が得意な秀吉のいいようにやられ、戦線を維持するのが難しくなります。

そして結局は秀吉に臣従することを選び、この戦いは決着します。

ちなみに同盟相手である家康に無断で和睦してしまう、という失態も演じています。

領地を没収される

その後、秀吉から東海道に移るようにと命じられますが、これを執拗に断ったことで、伊勢・尾張の領地を没収されてしまいます。

このため、しばらく下野(栃木)で謹慎することになりますが、やがて家康の仲介で許され、2万石程度の領地を与えられます。

旧領は100万石でしたので、ずいぶんと落ちぶれた形でしたが、なんとか大名に復帰はできました。

しかし、これでも信雄の身分は安泰とは言えませんでした。

関ヶ原の戦いで再び領地を失う

秀吉の死後、1600年になると、徳川家康と石田三成の間で、天下分け目の決戦である「関ヶ原の戦い」が行われます。

この時に信雄は何もせずに傍観していましたが、戦後になると再び領地を没収されています。

石田三成に味方はしませんでしたが、積極的に家康に味方するそぶりも見せなかったようです。

このため、家康からは「味方ではないので敵なのだろう」と見なされたようです。

戦乱の際には旗幟を鮮明にしないと生き残るのは難しいですが、信雄にはそうした道理がわかっていなかったようです。

こうして、信雄はまたも大名の身分を失いました。

大坂の陣で2度めの復帰を果たす

信雄はその後、姪の淀殿が実質的な当主を務める豊臣家に仕官します。

そして、1614年から徳川家康と豊臣秀頼の間で行われた、大坂の陣に関わることになります。

この際には家康に対し、積極的に大坂方の内情を通報していたようで、諜報員としての役割を果たしていました。

姪とその子を裏切っていたわけですから、とても褒められた行いではありませんが。

ともあれこの結果、戦後には家康から5万石の領地を与えられました。

以後はそれを失うこともなく、信雄の家系は長く大名家として続いています。

意外な結果に

信長にはたくさんの子どもがいましたが、意外なことに、江戸時代に大名として存続したのは、信雄の家系だけでした。

信雄は軍事的にも政治的にも無能な人物でしたが、それがかえって幸いして、戦乱の際に殺害されるところまでいかずにすみ、生き延びることができました。

殺さなければならないほど危険な人物でもない、と軽く見られていたようです。

また、なんといっても信長の子どもですので、秀吉にしても家康にしても、あまりに厳しい措置は取りにくかったものと思われます。

大坂の陣の後で5万石を与えられたのは、信長の血脈を大名として残しておこうとする、家康の配慮が働いていたのかもしれません。

家康にとってはかつて兄同然に慕い、長年の同盟相手であった信長の子どもですので、対応が甘くなるところもあったでしょう。

信雄の才能

こうして信雄自身の能力とは関係なく、それなりの大名として存続できたわけですが、信雄にもまったく才能がなかったわけではありません。

能楽の舞の名手だったと言われており、風雅な庭園作りにも励むなど、芸術的な才能は備えていました。

この点だけは、父の信長から受け継いだ才能があったのかもしれません。

こうして信雄は、数々の大事件に関わりながらもほとんど何もせず、時に敗れ、それでいて大名として生き残る、珍しい存在になりました。