文化露寇とゴローニン事件、高田屋嘉兵衛の活躍について

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紗那(しゃな)への攻撃

そんな中、4月23日になると、2隻のロシア船が、択捉島(えとろふとう)の内保湾へと姿を現します。

これを発見した番人が、紗那にある幕府の会所(交易所)に通報しました。

紗那は択捉島の中心地で、津軽・南部藩の兵士が駐在しています。

この知らせを受けた関谷茂八郎という紗那の役人が、兵を率いて内保に駆けつけようとしました。しかし、ロシア船は既に内保で米や塩などの物資を奪い、さらに放火をして出港した後でした。

このために関谷は紗那に引き返し、防備を固めることにします。

このように、常に攻撃の主導権は、軍艦を保有するロシア側が握っており、日本側は後手に回ることになりました。

4月29日になると、予想通りロシア船が紗那に入港してきます。

この時に、まずは和平交渉ができないかと思い、通訳の川口陽介が白旗を振らせ、ロシア軍に戦いの意思がないことを伝えようとしました。

しかし、ロシア軍はこれに応じず、有無を言わさずに攻撃を開始してきます。このために川口は銃弾に股を撃ち抜かれる重傷を負いました。

この攻撃を受け、津軽・南部藩兵が応戦しますが、日本側の装備は貧弱で、戦国時代に使われていた火縄銃や、骨董品のような大砲しかなく、まともに抵抗することができませんでした。
ロシア軍は日が暮れてくると船に引き上げますが、そこから艦砲射撃を地上に浴びせてきたため、紗那を守り切るのが困難になります。

指揮官の戸田又兵衛と関谷は、紗那を放棄して撤退することを決断しました。

そして戸田は途中で敗戦の責任をとって自害しており、日本軍はほうほうの体で、振別(ふれべつ)という集落にまで敗走します。

防衛軍が去った後の紗那にはロシア軍が上陸し、再び略奪が行われています。

その後、ロシア軍はゆうゆうと紗那を立ち去りました。

幕閣の土井は、ロシア軍は日本の武士の力で追い払える、などと言い放っていましたが、実態はこのようなものでした。

当時の日本は長く鎖国を続け、西洋諸国の軍隊に接する機会がありませんでしたので、装備の質に隔絶した差がついていたことを、認識していなかったのです。

日本が停滞していた200年の間に、西洋諸国は小銃や大砲、そして艦船の性能を着実に向上させており、まともに戦うことができなくなっていました。

文化露寇の経緯図

アレクサンドル1世の命令によって攻撃が中止される

1808年になると、アレクサンドル1世の元に、日本との戦いの情報が伝わります。

アレクサンドル1世は自身の許可していない戦いが、勝手に行われていることに不快感を示し、攻撃の中止を命じます。このためにロシア軍は全て蝦夷周辺から撤退しました。

そして独断で戦闘を行ったフヴォストフや、配下の軍人たちはみな処罰されることになります。

元々の命令を下したレザノフは、シベリアの横断や、日本への長い船旅のために健康を損なっており、これが原因で1807年に病死しています。このために処罰を受けることはありませんでした。

こうして土井利厚の配慮を欠いた対応が、日露関係に大きな傷を残す結果をもたらしました。

蝦夷がロシア軍から襲撃を受け、敗北したという情報は、やがて日本各地に広まっていき、その損害が誇張して伝えられたことから、社会不安を招くことになります。

幕府はその軍事力によって日本の支配権を握っていた政権ですので、ロシアとの戦いに敗れたことで、信望が大きく揺らいだのです。

このため、幕府は光格天皇に対し、事件の報告をせざるを得ない事態にまで追い込まれました。

そして権勢を挽回するために、ロシアに対して強硬な姿勢をとるようになり、蝦夷周辺の不穏な情勢は、しばらくの間、続くことになります。

礼節を欠いた外交が、どれほどの危険をもたらすのかを、知らしめる事件であったと言えます。

幕府は鎖国体制に引きこもる

この事件の影響で、日本ではロシア語の習得が通訳たちに命じられ、ロシア情勢の研究も行われましたが、1810年代になると、早くも下火になっています。

喉元すぎればなんとやら、というところで、幕府はこの敗北を、有益な教訓として活用することができなかったようです。

この後、幕府は1825年に異国船打払令という、日本の沿岸に近づく外国船を、無条件に打ち払う命令を全国に出しており、鎖国政策を継続しています。

この結果、西洋の技術の取り込みは進まず、幕府は軍事力が脆弱なままでペリーの来航を迎え、やがてその政権の崩壊を招くことになります。

もしも鎖国政策の愚をこの時に悟り、政策を転換していれば、また違った歴史が刻まれていたかも知れません。

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